[0036] 筥崎宮(はこざきぐう)
正面写真・地図
神社情報
神社№ 0036
神社名 筥崎宮(はこざきぐう)
神社別名 
参拝日 2011/11/13
再訪日 2012/07/22
社格  官幣大社
その他社格式内社(八幡大菩薩筥崎宮、名神大)、一宮神社(筑前国)、別表神社
ご祭神応神天皇、神功皇后、玉依姫命
由緒等
大社 筥崎宮

祭神 応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命
例大祭 九月十五日

筥崎宮は醍醐天皇の延長元年(九二三年)に創建され、延喜式神名帳に八幡大菩薩筥崎宮一座名神大社とある。宇佐・石清水両宮と共に日本三大八幡として朝野の崇敬あつく、特に鎌倉時代以降は武神として武家の信仰をあつめた。
なお、「敵国降伏」の宸翰を掲げる楼門は伏敵門として有名である。

●国指定重要文化財
一、本殿・拝殿 天文十五年(一五四六年)(太宰大弐)大内義隆再建
一、楼門 文禄三年(一五九四年)(筑前名島城主)小早川隆景造営
一、石造一ノ鳥居 慶長十四年(一六〇九年)(黒田藩主)黒田長政建立
一、石燈籠一基 観応元年(一三五〇年)在銘 天正十五年(一五八七年)千利休寄進

●特殊神事
玉取祭(玉せせり 一月三日)
社日祭(お潮井とり 春秋二季の社日)
仲秋大祭(放生会 九月十二日~十八日)
御胞衣祭(なまこ餅つき 十二月三十一日)

筥崎宮

延長元年(923年)創建で、祭神は応神天皇、神功皇后(応神天皇の母)、玉依姫命。文永11年(1274年)の元寇の際に社殿を焼かれたほか、何度かの火災に見舞われましたが、天文15年(1546年)大内義隆により現在の本殿と拝殿が、文禄3年(1594年)には小早川隆景により楼門が再建され、いずれも国の重要文化財に指定されています。境内には、「蒙古碇石」などがあります。

福岡市

お潮井について

博多では箱崎浜のお潮井(真砂)をてぼ(籠)に入れ家の玄関に備え外出の時身に振りかけて災厄からのがれる事を祈ります。
又、家屋の新築の際に敷地を祓い清め、農家では田畑に撒いて虫よけ、豊作を祈ります。
この起源は非常に古く神代の時代に神神が行われた禊祓(みそぎばらい)に基づくものです。
当宮では春秋の二度、春分と秋分の日に一番近い「つちのえ」の日を社日祭と言いお潮井取りの神事が賑やかに行なわれています。

このお潮井には厄除開運の祈願がしてあります

筥崎宮

祭神
 應神天皇
 神功皇后
 玉依姫命

創立
 延長元年 皇紀一五八三年 西暦九二三年

祭礼
 三元祭 元日初詣り
 玉取祭 正月三日
 初卯祭 二月、十一月 初卯
 社日祭 三月、九月 社日
 五月大祭 五月二十七日、ニ十八日、ニ十九日
 夏越祭 七月三十日、三十一日
 秋季大祭放生会 九月十二日、十八日
 七五三子供祭 十一月十五日
 御胞衣祭 十二月大晦日

明治天皇御製

よきをとり
 あしきをすてて外国に
おとらぬ国を
 なすよしもかな

自分以外の人の長所、美点をとり、自分の短所欠点をすてて自分をみがくように他国の良いことはとり入れ、悪いところは捨てて、この父母の国を立派な国に育ててゆく方法を求めてやまないものである

筥崎宮

敵国降伏のいわれ

筥崎宮楼門に掲げられる敵国降伏とは、鎌倉期に亀山上皇が納められた御宸筆(天皇の自筆)を模写拡大したものです。
その意味は、武力によって相手を降伏させる(覇道)ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ずから靡(なびき)降伏する(王道)という、我が国のあり方を説いています。

御神木 筥松

筥崎宮の御祭神、応神天応が筑紫国宇美の里(粕屋郡宇美町)にてお生まれになった時(西暦ニ〇〇年)その御胞衣を筥に納めて浪の音も静かな白砂青松の浄地に埋め標しの松を植えたと伝えられている。
それが」このところであって、その後この地を箱崎と称えこの松を「標の松」又は「筥松」といい御神木として尊んでいる。

千早振る神代に植えし箱崎の
 松は久しき標しなりけり (続古今集) 法印行清

木造亀山上皇御神像(銅像原型)

福岡県指定有形文化財(彫刻)
平成二十一年三月三十日 指定

亀山上皇は、第九十代として即位された鎌倉時代の天皇です。元寇に際して「身を以て国難に代わらん」と、全国の社寺に国家の安泰を祈願されました。
ここに奉安する木彫ご尊像は、亀山上皇の御姿を彫刻として表したもので、博多区の東公園に立つ銅像の原型として明治時代に制作されました。
福岡は元寇ゆかりの地ではあるが、明治時代、福岡警察署長に赴任した湯地丈雄は、この地に元寇を顕彰する記念碑がないことを嘆き、元寇記念の碑として、亀山上皇の銅像を建立することを発起、大規模な募金活動を開始します。そして尊像制作の依頼を受けたのが、博多出身の彫刻家 山崎朝雲です。
東京の高村光雲の元で活躍していた朝雲は、日本古来の技に西洋から導入した新しい技法を駆使し、明治三十五年(一九〇ニ)木造亀山上皇立像を完成させます。
総高六一ニ.四㎝、明治の木彫像としては最大級の大きさを誇り、優れた写実表現をみせるこの尊像は、日本近代を代表する山崎朝雲の若き日の傑作として注目されます。
原型像は佐賀の谷口鉄工場で鋳造、明治三十七年銅像が完成されます。明治時代には全国各地に数多くの銅像が建立されますがその原型像は、完成後に破棄されることが多く、現存している例は多くありません、特に大型木彫は保存が難しく、完全な形で現存している例は極めて稀少です。
この貴重な亀山上皇ご尊像は読売新聞社で長く保存されていましたが、縁あって筥崎宮に奉納されました。
元寇の戦乱の中で社殿を焼失し、亀山上皇から敵国降伏の御宸筆を賜り、再建の援助を受けた歴史を持つ筥崎宮では、多くの方々の御協力を得て再びここに奉安殿を建設し、大切なご神像として長くお守りして参ります。

平成二十三年十月ニ十日
筥崎宮

日本三大八幡
大社 筥崎宮

御祭神
応神天皇(八幡大神) 神功皇后(応神天皇の母君) 玉依姫命(海の神・神武天皇の母君)

筥崎宮の由緒
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。御祭神は筑紫国蚊田の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜二十一年(西暦九ニ一)、醍醐天皇は神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(九ニ三)筑前大分宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。
鎌倉中期、蒙古襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともにあり、同十八年には官幣中社に、大正三年には官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭など福博の四季を彩る杜として広く親しまれています。

神木「筥松」
楼門そばの朱の玉垣で囲まれた松です。筥松またはしるしの松と呼ばれるこの神木は、応神天皇がお生まれになったときの御胞衣を箱に入れ、この地に納めたしるしとして植えられた松です。この地は、もともと葦津ヶ浦と呼ばれていましたが、この箱が納められたことで箱崎と呼ぶようになりました。

本殿・拝殿(国指定重要文化財)
醍醐天皇の延喜二十一年(九ニ一)、太宰少弐藤原真材朝臣が神のおつげにより神殿を造営し、長徳元年(九九五)、太宰大弐藤原有国が回廊を造営したと伝えられています。しかしその後、元寇の戦火、兵乱などにより幾度かの興廃がありました。現存する本殿、拝殿は天文十五年(一五四六)太宰大弐大内義隆が建立したものです。本殿は総建坪四十六坪に及ぶ優秀な建物で、九間社流造、漆塗、屋根は檜皮葺、左右には車寄せがあります。拝殿は切妻造、檜皮葺で、梁組がニ重になっている素木のままの端正な建物です。

楼門(国指定重要文化財)
文禄三年(一五九四)筑前領主小早川隆景が建立、三間一戸入母屋造、檜皮葺、建坪はわずか十二坪であるが、三手先組といわれる枡組によって支えられた、八十三坪余りの雄大な屋根を有した豪壮な建物です。「敵国降伏」の扁額を掲げていることから伏敵門とも呼ばれています。扉の太閤桐の文様彫刻は江戸時代の名匠左甚五郎の作と伝わります。

一の鳥居(国指定重要文化財)
本宮の鳥居は、御本殿近くより数えて一の鳥居、ニの鳥居と呼ばれます。一の鳥居は慶長十四年(一六〇九)、藩主黒田長政が建立したとその銘にあります。この鳥居の柱は三段に切れ、下肥りに台石に続いています。笠木島木は一つの石材で造られ、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居であり、「筥崎鳥居」と呼ばれています。

千利休奉納の石燈籠(国指定重要文化財)
天正十五年(一五八七)太閤秀吉が九州平定後、本宮に滞在して博多町割りなどを行いました。その時秀吉が催した箱崎茶会に随行した千利休による奉納と伝わります。南北朝時代、観応元年(一三五〇)の銘があります。

■筥崎宮境内略図

あじさい苑
平成の御大典を記念し、境内の西奥に造られた神苑。六月になると御社殿を借景としておよそ一〇〇品種のあじさいが、色とりどりに咲き競います。その美しい花景色は訪れた多くの参拝者の心をなごませます。

神苑花庭園
園内は冬ぼたん、春ぼたん、ユリなど四季折々に咲く花々と、京都より取り寄せた松、苔、石を組み合わせた枯山水を楽しめる本格的な回遊式日本庭園です。

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筥崎宮の四季
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・月次祭 毎月一日・十五日
・三元祭 一月一日 年の始、月の始、日の始の意味で年新まる元日の朝執り行う祭典。
・玉取祭(玉せせり) 一月三日 玉取祭は、俗に「玉せせり」といい、全国に知られる奇祭です。起源は、諸説あって定かではないが、昔から、盛大かつ厳重に行われています。午後一時玉洗式で洗い浄められた陰陽二つの玉は、末社玉取恵比須神社に運ばれます。祭典の後、陽玉は、競り子たちに手渡され、玉せせりが始まります。玉に触れると悪事災難をのがれ、幸運を授かるといわれ、裸の競り子たちは、勢い水を浴び、身体から湯気を立て激しい争奪戦を繰り広げながら本宮へ向かいます。やがて楼門下に待つ神職に手渡され、陰陽二つの玉は再び揃って神前に納まり、祭りが終わります。
・建国記念祭 二月十一日
・祈年祭 二月十七日
・春季社日祭(お潮井とり) 春分の日に近い「戊」の日 博多では古くより、本宮の海岸の真砂をお潮井といい、これを「てぼ」といわれる竹かごに納めて持ち帰り玄関口に備えます。お潮井は「災いを除き福を招くもの」として、常日頃より身を清めるお祓いに用いられます。また建築時の敷地や建物のお祓い、田畑の虫よけ、豊作を祈るお祓い、病気全快には部屋にまきます。波の花(塩)や切り火とならぶ民間信仰で、旧筑前一帯に残る風習です。この社日祭は、春分・秋分の日に一番近い「戊」のとなっており、この日のお潮井は特に尊いものとして珍重され、社頭は遠近よりの参拝者で終日賑わいます。
・さつき大祭 五月ニ十七・ニ十八日
・池島殿祭 六月第四日曜日
・夏越祭 七月の最終日曜日とその前日 神代の昔、イザナギの神がなされた禊祓に起源する祭事。楼門前に据えた「茅の輪」をくぐり「人形」に罪穢れを託し、「千度祓」を受けると災難や病から逃れ、健康に恵まれると伝わることから、多くの参拝者で賑わいます。
・七夕祭 八月七日
・放生会大祭 九月十二日~十八日 生きとし生けるものの生命を慈しみ守られる八幡大神の御心にこたえる祭りで、実りの秋を迎えて海山の幸に感謝を捧げる祭りでもあります。その起こりは八幡大神の「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」との御神託によるもので、本宮では千年以上前から続く最も重要な祭典です。どんたく、山笠と並び博多三大祭りにも数えられ、古くは博多の各町内が着物やごちそうを持ち寄り「幕出し」といわれる大宴会に興じていました(この幕出しは現在、博多町人文化連盟の人々によって復活)。祭り期間中は参道一帯に七〇〇もの露店が立ち並び、百万を数える参拝者でにぎわう九州随一の秋祭りです。
・秋季社日祭(お潮井とり) 秋分の日に近い「戊」の日
・七五三祭 十一月十五日
・新嘗祭 十一月ニ十三日
・御降誕祭 十二月十四日
・天皇誕生祭 十二月二十三日
・御胞衣祭 十二月三十一日

「敵国降伏」の宸筆
敵国降伏の御宸筆は本宮に伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。たて十七・五センチよこ十八・三センチで全部で三十七葉あります。社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納められた記録があります。特に文永十一年(西暦一ニ七四)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた事跡は有名です。楼門高く掲げられている額の文字は文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営したした時、謹写拡大したものです。

千年の祈り、後世へ
筥崎宮

鎮座地 〒812-8655 福岡市東区箱崎1-22-1

お問合わせ先
 筥崎宮 社務所 Tel.092-641-7431
 神苑花庭園 Tel.092-651-1611
 レストラン迎賓館 Tel.092-651-1100
 ブライダル清明殿(婚礼受付)Tel.092-642-1122

<交通のご案内>
 <福岡市営地下鉄>箱崎宮前駅下車→徒歩3分(1番出口)
 <JR九州>箱崎駅下車→徒歩8分
 <西鉄バス>箱崎下車→徒歩3分
 <JR九州バス>箱崎1丁目下車→徒歩2分

筥崎宮神苑花庭園リーフレット
筥崎宮あじさい苑リーフレット
筥崎宮境内ご案内図
ご朱印
鎮座地区福岡市東区
郵便番号812-8655
所在地福岡市東区箱崎1丁目22-1
地図座標33.614622,130.423359
公式HPhttp://www.hakozakigu.or.jp/
福岡県神社誌
【社名】 筥崎宮 [A00-0003]
【所在地】 福岡市箱崎町字宮之前
【祭神】 応神天皇 相殿 神功皇后 玉依姫命
【由緒】 人皇第十五代応神天皇、神功皇后の胎内にましまして新羅の国を征したまひて、後筑紫の蚊田の里に御降誕あらせらる。その御胞衣を筥に歛めて現社地に御埋鎮遊ばされ其の御標として松を植え給ふ。これ即標の松又は筥松にして、住吉此の地を葦津浦と云ひしも爾来箱崎と称するに至りぬ。筥松こそ本宮語創始を物語るものにて、これ箱崎の地名の起源なりとす。のち醍醐天皇の御字に至りて、太宰少弐真材朝臣、石清水八幡宮に、廻廊を造営寄進せんと立願せしに、延喜二十一年六月二十一日神託あり、すなはち「新に神宮を筑紫の筥崎に造営し宮殿を乾に向け柱に栢を用ふべし、末代に至りて異国より我国を窺ふ事あらば吾其敵を防去すべし、故に敵国降伏の字を書きて礎の面吾座の下に置くべし」と。この故を以て急ぎ奏聞を経たるに、その勅許に曰く、託宣之旨為禦来寇加之外賓通攝之境也栄(ニ)其宮殿(一)殊可(ニ)美麗(一)云云と。
延喜式を按ずるにすでに名神大社たりしも、社頭の盛衰時にまぬがれ難し。明治五年四月県社となり、同十八年四月ニ十ニ日官幣中社に昇格、大正三年一月十四日更に官幣大社列格仰せ出さる。
神木筥松につき次の古歌あり、
 千早振神代にうゑし はこざきの 松は久しきしるしなりけり。 法印行清
 跡たれて 幾代へぬらん筥崎の しるしの松も神さびにけり。 按察使顕朝
【特殊祭事】 ・三元祭 一月一日
三元とは年の始め、月の始め、日の始めの謂にして十二月十四日応神天皇の御降誕あり、大晦日は夜を徹して尊き御胞衣を埋蔵し参らせたれば、元旦には鏡餅に代ふるに海鼠を以てして、香椎の行宮に供御奉れり。このふるき例のまにまに今に至るまでこの日海鼠型の餅を献ず。
・玉取祭 一月三日
正月三日の神事にて俗に「玉せせり」とも称す。何時の頃より始まりたるものか判然せず。此の日午前九時より本宮神前に於て厳かなる御玉洗ひ浄めの式あり、其の儀玉顆に縁故ある一木、山口両家出仕の上、径尺余のニ顆の木珠を微温湯にて洗ひ浄めて筥に納め境外末社恵比須神社に供ふ。軈て神職祭典奉仕する頃ともなれば、海水に身を浄め、赤裸となりたる壮漢数百、社前に蝟集して祭典の終了を今や遅しと待機の態勢を採れり。
斯くして祭典了れば、神職の手によって陽珠一顆はこの壮漢の中に投ぜらる。
玉顆一度投せらるるや、天地を揺がす喊声と共に我先にと押し合ひ奪ひあひつつ、一進一退刻々に競争は白熱化して、極寒の空に流汗は水煙となりて立昇り、数百の肉塊は十重ニ十重に相重なり、龍攘虎搏の活劇を演ずる光景は、実に壮絶快絶の極みなり。其の起因に就いては、社説の伝ふるところに依れば、「正月三日筥崎宮の拝殿に於て、神職が石にて作れるささやかなる玉を捧げて持てる人々寄集ひて戴きけるとかや。さるを誰いふとなく彼の玉を戴けば、その年の悪事災難を遁れ運強くいとめでたしなどいひて、年々に集りくる人数殖え、果ては社前に備へたるを参詣の人々に授けんとするを、我先に戴かんと押合ひ揉み合ふ内に、神職の持てる玉落ちければ各々一時に之を拾はんと競ひける。されど衣服を着たる儘にては進退自由ならざれば、裸体になりて競ひ取合ひしより起りし云云」とあり。また博多記には「正月三日、玉採の神事は神功皇后三韓退治の時、龍神千珠、満珠の玉を献ぜし瑞相をかたどりしものなりと云ふ、雌雄のニ顆あり。相伝ふ、明応三年正月元旦卯刻、博多上州崎町に原田某ありて筥崎宮に詣で、汐井浜に打出で、遥に沖の方を眺めしに、不思議や光明閃々として海上より浮来るものあり、能く之を観れば、一対の珠丸の寄れるものなり、某拾ひ取り其の家に留置せしに、種々奇怪のことあるにぞ、同八年に於て某は其一顆を筥崎宮に納め一顆を櫛田神社へ納むと言ふ」とあり。天明六年八月朔日此の一顆は櫛田神社より筥崎宮に納められたり。
・初卯祭
卯の日卯の年は八幡宮(応神天皇)にゆかり深き故に、春秋ニ季初の卯の日、庭燎の古儀今に存して、厳に仕へ奉る。
・社日祭
社日の潮井汲りとて、深き広き民間信仰に立つ祭也。
・仲秋祭 九月十二日より同十八日迄
世俗に放生会と称す。九月十ニ日より十八日迄一週間の祭典にて、昔は陰暦の八月に行はれたるものなり。大祭の節は社頭の一の鳥居より潮井浜迄約八町の間、大道の両側には大小幾多の露店、見世物、飲食店、遊技場など、夫々区を分ちて連檐櫛比し、白砂の浄域は忽ち華やかなる新市街と化す。
「放生会まいり」といへば、昔より福博の人々にとりては最も大切なる年中行事の一とせられたるものにて、博多の町家は殆ど総て業を休みて参詣し、或は神苑内の松林に幕引廻はして宴席を開き、或は磯辺に船を浮べて一日の清遊を催すものも多し、近郷近在は云ふに及ばず、遠く他地方より来り賽するもの陸続として織るが如し。参詣の多きこと実に九州随一と称せらるる程の賑ひなり。
此の大祭の神幸式は昔時極めて盛大なるものにて、毎年博多の課役として新船三艘を造り、それに神輿を奉じて供奉し、衣冠の装ひを輝かし、音楽の声を響かせて、海上を博多夷町の頓宮即ち今の大浜町の恵比須神社に渡御の儀あり、還幸の際は一旦神輿を浜の浮殿に駐め参らせて後、本社殿に還御あらせらるることとなれり。其の神幸の際に御供を炊ぎたる所即現今の博多御供所にして実に厳かなる神事なりしが、天正戦乱の世頓宮の炎上と共に一時廃絶の止むなきに至り、其の後元禄十四年神職の祈願によりて国主綱政より御幸料の寄進あり、今の神苑内の松林中に頓宮を造営して再興せらる。其れよりは元の如く博多の浜への神幸は止み、松原の頓宮に隔年毎の神幸式を行はるる事となりたり。即ち八月十二日夜の子の刻の三座の神輿出御あり、十三日は頓宮に御駐輿の上、十四日の夜亥の刻の還幸、而して十五日の早天には還幸式を終へて放生供養あり、流鏑馬を執り行ふ。又神幸なき年は流鏑馬に次で猿楽五番、及相撲の奉納等行はれたり。斯くて神幸式は維新の後も其のまま続けられ、現今に於ても隔年にいと厳重に執行せらる。
放生会とは扶桑略記に見ゆる「合戦の間多く殺生す宜しく放生会を修すべし云々」の神託によって始まりたるものと伝へられ、元中六年九州探題今川貞世より筥崎宮大宮司、五智輪院に興へたる文書にも「放生会不可怠」とあり。慶長年中に至りて中絶したりしを、延宝三年正月十五日より座主坊盛範之を再興し、其の後毎月十五日に放生会を行ひしが、明治初年の神仏分離により其の法会は廃絶し今はその名のみを残せり。
・御胞衣祭 十二月三十一日
祭神応神天皇は仲哀天皇の九年十二月十四日後降誕あらせられしが、御胞衣を大晦日の夜を徹して筥崎の地に納められたりといふ由緒によりて、十二月三十一日の晩に行はるる祭典なり。
尚本祭典中箱崎浦漁夫ニ、三十名、神饌所に於て海鼠型の餅を搗き、これを三元祭(一月一日)の神饌に供す。当時箱崎浦の漁夫鏡餅に代へて海鼠を献じたりと云ふ故事に因ると云ふ。
【例祭日】 八月十五日
【主なる建造物】 本殿、幣殿、拝殿、楼門、廻廊、出札所、手水舎、絵馬殿、社務所、神饌所
【主なる宝物】 敵国降伏御宸翰醍醐天皇御宸筆三十七葉、筥崎八幡宮縁起二巻、画入縁起二巻、誉田八幡宮縁起写二巻、筥崎宮神幸図二巻、孝明天皇蠻夷拒絶御祈願綸旨十通、祈願初メ日限書共、古文書及太刀、鎧、扁額、錮印、銅燈籠、唐銅酒瓶等数十点
【境内坪数】 内境内七千六百二十六坪 神苑総坪数約四万坪
【氏子区域及戸数】 箱崎町外市内の一部戸数約一万戸
【境内神社】 ・東末社(宇賀御霊神、埴安姫神、住吉三神、諏訪大神、天御中主神、莵道稚郎子命、若八幡、仁徳天皇、宗像三女神、軻遇土命、奥津彦命、奥津姫命)
・西末社(埴安神、保食神、隼男神、武速須佐男神、市杵島姫命、伊弉諾命、伊弉冊命、警固三柱大神、愛宕大神、天野丹生神、仲哀天皇、天照皇大神、志賀三柱大神、天児屋根命、高良玉垂命、仁徳天皇、若姫、宇礼姫、綿津見神)
・末社 玉取神社(事代主命)、宇佐殿(宗像三女神)、相保殿(保食神)、恵比須神社(事代主命)
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公開日2012/08/05
更新日2012/08/05
その他の写真
国道3号線沿い入口風景
高燈籠
大鳥居正面
大鳥居扁額
大鳥居背面
参道風景
ニの鳥居
ニの鳥居扁額
神社正面入口前風景
神社正面入口
社号標
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
一の鳥居
由緒書きと案内板
筥崎宮由緒書き
筥崎宮案内板
境内風景
手水舎
お潮井砂
お潮井について
湧出石全景
湧出石説明板
湧出石
楼門全景
楼門全景
楼門扁額
楼門正面
御祭神銘
楼門入口
拝殿内
和歌(拝殿前)
明治天皇御製(賽銭箱上)
敵国降伏のいわれ(賽銭箱上)
ご神木筥松
ご神木筥松由緒
社務所(お守り授与所ほか)
絵馬殿正面
絵馬殿左面
絵馬殿右面
亀山上皇尊像奉安殿全景
亀山上皇尊像奉安殿
亀山上皇尊像奉安殿正面
亀山上皇尊像
亀山上皇尊像
亀山上皇尊像由緒
筆塚
境内神社、西末社風景
境内神社、西末社案内板
境内神社、西末社
境内神社、東末社風景
境内神社、東末社案内板
境内神社、東末社
境内神社、東末社池島殿案内板
境内神社、東末社池島殿大祭のお知らせほか
境内神社、東末社乙子様説明板
境内西側風景
西門側手水舎
西門側神門
境内裏側風景
裏門参道
裏門
境内東側風景
東門側手水舎
東門側神門
社務所背景
楼門横景
大楠
元寇関連史跡
蒙古軍船碇石解説板
蒙古軍船碇石
さざれ石
元寇歌曲碑
神社入口脇の小庭園