[0078] 光雲神社(てるもじんじゃ)
正面写真・地図
神社情報
神社№ 0078
神社名 光雲神社(てるもじんじゃ)
神社別名 
参拝日 2011/12/11
再訪日 2012/07/25
社格  県社
その他社格別表神社
ご祭神黒田孝高、黒田長政
由緒等
光雲神社

福岡藩の藩祖黒田如水と初代藩主長政父子を祭る神社です。社号はふたりの法名「龍光院」と「興雲院」から「光」と「雲」を取りあわせたもので、六代藩主黒田継高(1703年-1775年)のとき、福岡城内に二人を祭ったのがはじまりとされています。明治40年(1907年)にこの地へと移されましたが、太平洋戦争による戦災で焼失。現在の社殿は、昭和41年(1966年)に再建されました。境内には民謡「黒田節」のモデルとなった母里太兵衛の等身大の同像があります。

福岡市

光雲神社御縁起

所在地 福岡市西公園
社格 別表神社
祭神
 黒田勘解由次官孝高(如水) 法名 龍光院殿
 黒田筑前守長政 法名 興雲院殿

この神社には、黒田如水公と黒田長政公の霊を祭ってある 如水、長政両公は、全国的に有名な民謡「黒田武士」の育ての親であり、また「福岡」の名付け親でもある
光雲神社という名前は、両公の法名からそれぞれ一字ずつをとってつけた
この神社は如水、長政両公の子孫嗣高公が藩主になられたとき福岡市舞鶴城内(現、平和台)本丸天守台の下に造られた「ところが」明治四年(一八七一年)廃藩置県のさい黒田家が東京に移転されることに決まると歴代藩主の恩恵をしたうあまりに旧藩民有志が当時十一代藩主であった長溥公に懇願し、許可を得て明治四年八月小烏吉祥院(現在の警固神社の近く)に神社を移した

1 明治八年三月県社に昇格
2 同四十年四月西公園に社殿落成移転
3 昭和二十年六月被戦災
4 同四十一年十月現在社殿に鎮座

例祭日
 春の大祭 四月二十日
 秋の大祭 十月四日
 (他小祭日略)

摂社 堅盤神社(黒田重隆公、職隆公、忠之公、阿津姫)
末社 荒津神社(大巳貴命、国常立尊、正哉吾勝尊、国狭槌尊、伊弉冊尊、瓊々杵尊、惶根尊)

黒田入国
慶長五年(一六〇〇年)黒田長政(一五六八~一六二三年)は筑前五十二万三千石の太守として名島城へ入国した。関ヶ原の役に父、如水(一五四六~一六〇四年)とともに徳川軍に味方して軍功めざましく外様大名としては破格の恩賞だった。
天下わけ目の戦いが終わり敗れた石田三成が家康の陣中に引き出されとき、長政ひとりが「治部どの勝負は武士のつね、お気の毒に存ずる」と縄目の上に衣をかけていたわる。
この時光成、長政の耳に口を寄せ「長政どのこのたびのお働きあっぱれ、恩賞のあかつきは筑前を所望されよ。筑前一国を治めれば全国を支配できましょうぞ」と教える。光成こそは、かつて太閤秀吉の町わり(都市計画)のときの工事・奉行その人、この地の重要性をだれよりも熟知していた・・・と巷説はこの間の事情を興味深く伝えている。

福岡の城
それまで小早川氏の居城だった名島は、乱世にはともかく大平の政治にとって東に偏しているとみた長政は、翌六年新しく築城を思いたつ。
みづから住吉、箱崎、荒戸を視察したあと那珂郡警固村の福崎に白羽の矢を立て、工事はこの年に着工された。城郭は東は那珂川、西は金屑川を境いに北は海、西の入江を大きな濠とした。いまの大濠公園にあたる。本丸は昔の国立病院附近、平和台球場一帯には家老、馬回り役など重臣屋敷がならんでいた。
翌七年完成したそれは天守閣もなく城というより城主をとりまく重臣クラスの団地と呼ぶにふさわしかったが、しかもその天衣無縫ぶりに如水、長政父子の和戦両用の妙計が秘められていた。築城の名主加藤清正もその経倫の秀抜さに舌をまいて感嘆したという。「福岡」の名は黒田家が興った備前(岡山県)の地名にあやかって如水の意見で決ったといわれる。

英知の洞察
”壮麗”よりも”堅固”をむねとして周囲の石垣積みもわずかに見附三門(北側の上の橋、下の橋、南側の追い回し門)の両袖だけを低い土壘でつないだ城。一見無防備に見えながらいったん開戦にそなえる周到な用意につぎの例がある。
今も大名一丁目西鉄グランドホテル前近くに見られる急カーブが築城法にいう四折枡形町割りの仕掛け。四ツ角をわざとギクシャク食い違わせ、いざ戦争のとき中心点の道路の一方を急造の家などでふさいでしまう。突進してきた不案内の敵軍はそのまま別の道にそれ、城下町に入れないトリック。
また海に面した寺院十五はいつでも兵站基地になったし、老司の堰を切って落せば低地部は水びたしになって進入路をはばんだ。茫洋として八方くずれに見えながらその実和戦いづれにもそなえた福岡城の雄姿はまさに時代の雛勢を洞察した英知によるものといえるだろう。

開墾と植林
長政の治績で、とくに挙げるものとして開墾、治水、植林などがある。たとえば早良郡田島、那珂郡春日、粕屋郡新原、鞍手郡御徳、志摩郡新田、怡土郡五郎丸、夜須郡山隈、遠賀郡の今古賀、木守などは開墾で生産をふやし、これからの開墾地は二年から三年間は免税としたから農家は所得倍増をよろこんだ。
また遠賀川流域の芦屋→南良津間の治水改修は前例のない大工事といわれ作業人員は実に十二万人を越えた。さらに宗像郡慈ノ島の修港工事、博多袖の湊の埋築、田島、比恵、八木山などの堤防など数えればきりがない。那珂川尻の砂洲だった中島は石垣で固めて人工島とし、東西に橋をかけて初めて博多と福岡を結んだ。
領内にハゼの増殖をすすめ遠賀、宗像、粕屋、早良など沿岸の砂浜に松の増殖をはかって農作物の防風林とした。百道松原、千代の松原、生の松原など、みんな当時の植林古くからある松林の老樹が倒れたときは社寺や橋などの用材とし切り倒したあと必ず苗木を植えておくよう定めている、現代から見ても凡庸な領主でないことがわかる。

要するに築城戦略家中の第一人者であり、また生涯を通じて勤倹実行つねにみづから範を示した黒田如水の行績と遺芳は実に大きい。
長政また、よく父の遺訓を奉して二十四年間につとめた所産は昭和の今日でもなお私たちの周囲に生きているといえるだろう。
六代継高は、その徳を慕い本丸内に藩祖両公をまつったがのち城外薬院に移され、明治四十二年いまの西公園に奉遷すると同時に如水三百年祭が五日間にわたって盛大に催されている。
 如水 慶長九年三月二十日永逝 年五十九、法名 圓清龍光院
 長政 元和九年八月四日入寂 年五十六、法名 古心道卜興雲院
社号の「光雲神社」の「光雲」はすなはち両公の法号に選ばれたことはいうまでもない。

チンチクどん
黒田の殿さまは、お国入りのとき、中津から武士約一万人を従えてきた、一緒に町人たちもざっと三千人はやってきただろう。みんな黒田家と共に播州(姫路)いらい中津、名島と移ってきた人たち。
たとえば伊崎浦の漁師たちはキスが好きだった殿さまのご膳部漁師で「伊崎」というのも「福岡」同様、備前の地名にちなんだ。上名島、下名島の町名も名島城時代の町家や、武家屋敷をそっくり移したところからきている。草ぼうぼうだった荒地は一躍新しい城下町として活気があふれる。
武士たちのご家中言葉も博多っ子たちには耳新しく響く。「とんとん」が「坊ちゃん」で「シャンシャン」が「お嬢さま」のこと。「ガッシャイ」が「いらしやい」ということ。博多言葉と違ってどこか無骨な福岡言葉だった。
やがてユーモア好きの博多っ子たちは、いささか親しみと皮肉をこめて軽輩武士に「谷わくどう」「チンチクどん」と仇名を奉る。禄高の低い武士は城南の丘陵地帯や地行一帯に住んだが赤土道を歩くへんな足つきがガマガエルそっくり、また錦竹の塀で費用を浮かせているというのでこう呼んだ。

光雲神社略記

所在地 福岡市中央区西公園一三番一号
祭神 黒田勘解由次官孝高(法名 龍光院殿) 筑前守黒田長政(法名 興雲院殿)
例祭日 春季大祭 四月二十日 秋季大祭 十月四日
摂社 堅盤神社(黒田重隆公、職隆公、忠之公、阿津姫を祀る)
末社 荒津神社(神武天皇、大物主神、金毘羅神を祀る)
末社 日吉神社(大巳貴命、国常立尊、正哉吾勝尊、国狭槌尊、伊弉冊尊、瓊々杵尊、惶根尊を祀る)

光雲神社の創建
孝高、長政両公の法名から一字づつ採り光雲神社と名付けたものであります。
第六代藩主黒田嗣高公の代に現在の福岡市舞鶴城内に創建。明治四年廃藩置県の際、黒田家が東京に移転されるに及んで有志等が第十一代藩主長溥公に懇願し、明治四年八月旧社地の小烏吉祥院跡に城内本丸天主台下の祠堂より奉遷、明治八年には県社に昇格。
明治四十年四月一日西公園に新社殿落成し、移転遷座。昭和二十年六月十九日戦災を受け、昭和四十一年十月三十日復元、昭和四十一年二月一日別表加列。

黒田如水、長政 両公をまつる光雲神社
ここ荒津山頂光雲神社に奉祀する藩祖二公が、慶長五年筑前国主として移封されるや、当時の警固村に舞鶴城を築き、大濠を掘り、那珂川を境として福岡と博多の町づくりを行い、徳川政治三百年のあいだ、民意を尊び、産業を奨励し、今日の福岡市興隆のいしずえをなしたことは、全く黒田家藩祖二代の遺訓におうところ実に多大なるものがあり、福岡の名称は両公が名付け親であることも周知のことであります。
明治四十年に光雲神社が、この西公園に移転遷座以来、福岡市民は両公の功績を偲び、郷土の祖神として崇め親しんでまいりました。

黒田両公の福岡入国
慶長五年黒田長政は、筑前五十二万三千石の太守として名島城へ入国した。関ヶ原の役に父、如水と共に徳川軍に味方して軍功目覚しく、外様大名としては破格の恩賞でした。天下分け目の戦いが終わり、敗れた石田三成が家康の陣中に引き出され時、長政ひとりが「治部殿、勝負は武士のつね、お気の毒に存ずる」と縄目の上に衣をかけていたわる。この時、光成が長政の耳に口を寄せ「長政殿、このたびの働き、あっぱれ。恩賞のあかつきは筑前を所望されよ。筑前一国を治められれば全国を支配できましょうぞ。」と教える。
光成こそはかって太閤秀吉の「町わり」の時の工事奉行その人、この地の重要性を誰よりも熟知していたと巷説はこの間の事情を興味深く伝えています。

福岡築城
それまで小早川隆景の居城だった名島は、乱世にはともかく大平の政治にとって東に偏しすぎているとみた長政は、翌慶長六年新しく築城をおもいたつ。自ら住吉、箱崎、荒戸を視察した後、那珂郡警固村の福崎に白羽の矢を立て工事はこの年に着工する。
城郭は、東は那珂川、西は金屑川を境いに北は海、西の入江を大きな濠とした。今の大濠公園にあたる。
本丸は、昔の国立病院付近、平和台球場一帯には家老、馬回り役など重臣屋敷が並んでいました。翌七年完成したそれは天守閣も無く城というより城主を取り巻く重臣クラスの団地と呼ぶに相応しかったが、その天衣無縫ぶりに如水、長政父子の和戦両用の妙計が秘められ、築城の名人、加藤清正もその経綸の秀抜さに舌を巻いて感歎したといいます。

英知の洞察
「壮麗」よりも「堅固」をむねとして周囲の石垣積みもわずかに見付三門(北側の上の橋、下の橋、南側の追い回し門)の両袖だけを低い土塁でつないだ城。一見無防備に見えながらいったん開戦に備える周到な用意に次の例があります。
今も大名町西鉄グランドホテル前近くに見られる急カーブが築城法にいう四折枡形(よつおりますがた)町割りの仕掛け。四つ角をわざとギクシャク食い違わせ、いざ戦争のとき中心点の道路の一方を急造の家などで塞いでしまう。突進してきた不案内の敵軍はそのまま別の道にそれ、城下町に入れないトリック。
また、海に面した寺院十五はいつでも兵站基地になったし老司の堰を切って落とせば低地部は水びたしになって進入路を阻むことになる。
茫洋として八方くずれに見えながら、その実、和戦いずれにも備えた福岡城の雄姿は、まさに時代の趨勢を洞察した英知によるものといえるでしょう。

黒田家の家紋
黒田家の家紋は本来、丸に三橘でしたが、如水が、のち、これを改め、藤巴を創始したと言われます。
如水が秀吉に従い中国地方平定の戦いで、毛利方についていた荒木村重を説得すべく伊丹の有岡城に単身載り込んだ際、獄に繋がれてしまう。この幽閉中、藤の若蔓が獄舎の棚を伝わって、新芽を吹き出し、紫の花を咲かせ、如水に未来の瑞祥を告げたとされる。その時の艱難辛苦を忘れないためといわれます。
なお、如水の幽閉は約一年に及んだが、この時、主君織田信長は如水が毛利方に寝返ったものと思い、人質として預かっていた一人息子の長政を殺すように竹中半兵衛に命じる。しかし、如水の盟友半兵衛は長政を殺したと偽りの報告をし、長政の命は助かった。次に伝える説話もそうであるが長政の幸運、強運ぶりを窺い知ることができます。

幸運の兜の由来
慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原戦に徳川方の先陣を承った黒田勢は、旧岐阜市の東、合渡川に進出した。連日の雨で増水したのを家臣後藤又兵衛の進言で、夜中、強行渡河が決まった。ところが、長政公の乗馬が先頭で足を滑らせ、危うく河中に転落の刹那、川辺に立つ柳の枝に水牛の兜の緒がかかり幸運にも難を避けることを得ました。この勢いに黒田勢の士気があがり関ヶ原天下分け目の戦いの勝利に大いなる役割を果たすことができました。

光雲神社境内入口右側の水牛の兜像は、この長政公の幸運にあやかり多くの崇敬者の篤志により製作、奉献されたものです。

天井の謡鶴
光雲神社拝殿の天井に描かれためでたい雌雄の丹頂鶴の画は、舞鶴の地名に因んで、木原 信画伯により描かれたものです。
お賽銭をあげて参拝されますと鶴の声がきこえます。その一声に託してあなたの幸運が開けますように。

母里但馬守太兵衛友信像
黒田二十五旗の一人、智勇兼備の武将で主君長政公の命を受けて福島正則公に使いしたとき、禁酒の太兵衛が、なみなみと注がれた大杯の酒を自若として飲み干し、太閤秀吉より拝領の福島家、家宝「名槍日本号」を持ち帰った話は有名であります。
なお、像の下部には全国で親しまれている「黒田節」の歌詞が刻まれています。

母里家二十一代嘉道氏外有志が主君長政公の有名な水牛の兜と光雲神社の社頭を固める守護像として奉納されたものであります。

〒八一〇-〇〇六一
福岡市中央区西公園十三番一号
光雲神社
電話 〇九ニ-七六一-一八〇七番
ご朱印
鎮座地区福岡市中央区
郵便番号810-0061
所在地福岡市中央区西公園13-1
地図座標33.597405,130.376534
公式HP 
福岡県神社誌
【社名】 光雲神社 [A00-0014]
【所在地】 福岡市荒戸町字宮床
【祭神】 黒田孝高、黒田長政
【由緒】 当社御祭神は藩主黒田氏の祖先勘解由次官孝高其子侍従筑前守長政の神霊にして其裔孫旧藩主黒田嗣高代より福岡城内に勧請したるものを明治以来旧藩主四民恩澤を追慕し、明治四年廃藩置県の際黒田家東京へ移転せらるるに及び有志等十一代の藩主故従二位長溥公へ懇願し其の筋の許可を得て明治四年八月十九日旧社地たりし小烏吉祥院跡へ旧福岡城内本丸天守台下の祠堂より奉遷し、両公の法謚(孝高公-龍光院殿 長政公-興雲院殿)の各一字を採りて社号を光雲神社と改め衆庶初めて参拝することとなれり。同五年九月村社に列せられ、其の後筑前国内各郡区の旧士民総代より出願し同八年三月二十日県社に昇格、明治三十九年七月二十七日当所に移転許可、明治四十二年四月一日社殿新築落成につき移転遷座す。
【例祭日】 四月十九日、二十日、二十一日
【神饌幣帛料供進指定】 明治四十年一月十九日
【主なる建造物】 本殿、幣殿、拝殿、社務所
【主なる宝物】 黒田如水像、黒田長政像(国宝、絹本著色)、水牛の兜(長政公使用)、一の谷兜(長政公使用)、合子の御冑(孝高公使用)
【境内坪数】 七百四十坪
【氏子区域及戸数】 崇敬者多数
【摂社】 堅盤神社(黒田重隆公、黒田職隆公、黒田忠之公、黒田綱之公、黒田阿津姫)
【末社】 荒津神社(神武天皇、大物主神、金刀比羅神)、日吉神社(大己貴命、国常立尊、正哉吾勝尊、国狭槌尊、伊弉冊尊、瓊々杵尊、惶根尊)
コメント 
公開日2012/09/01
更新日2012/09/01
その他の写真
入口鳥居
社号標
神社案内板
由緒書
黒田家説話
黒田官兵衛看板
境内の松
水牛の兜像
母里但馬守太兵衛友信像
母里但馬守太兵衛友信説明板
社殿正面
拝殿正面
拝殿
拝殿神額
社殿全景
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
社殿左側風景
光雲神社復元奉賛金寄附者並ニ関係者芳名碑
摂社堅盤神社
摂社堅盤神社案内板
筑前今様歌碑
筑前今様歌碑案内板
社殿右側風景
境内神社、荒津神社
境内神社(不詳)
境内神社、荒津神社案内板
石碑
底曳網漁船殉難者慰霊碑