[0197] 老松神社(おいまつじんじゃ)
神社№  0197
神社名  老松神社(おいまつじんじゃ)
神社別名  
参拝日  2012/02/11
再訪日  2014/09/13
社格   村社
その他社格 
ご祭神  天満天神、老松殿、紅松殿
由緒等  
不詳
ご朱印   
鎮座地区 福岡市早良区
郵便番号 811-1102
所在地  福岡市早良区東入部6丁目20-16
地図座標 33.517978,130.334273
公式HP   
福岡県神社誌
【社名】 老松天神社 [A00-0688]
【所在地】 早良郡入部村大字東入部字中通
【祭神】 天満天神、老松殿、紅松殿
【由緒】 当社は延喜年中菅原道真左遷の時の手植の松老茂る故に老松と称す、其所を飛松とも云ふ、正暦二年社殿を立て神体を遷し天満天神紅梅殿と称す。
今宮を地主神とす、天正七年九月十一日兵火に罹り焼亡す。
怡土郡飯場村河内と云ふ所に曲淵河内守弟波呂新左衛門と申者あり是を頼み数ヶ年の間此所に居給ふ。
文禄年中社殿を建立し入部庄へ遷す、神領四十町八段余の所太閤秀吉没収す其後纔に神領残りたるを小早川秀秋又没収す。明治五年十一月三日村社に定めらる。尚当社の御由緒略記に挙ぐる所次の如し創立は正暦二辛卯年二月十一日荒平城主小田部氏及び入部庄民の寄進により現在の社地に建立す。其の由来は延喜年中菅公筑紫に御左遷の砌り、当社に御休息遊され、御手つから松を植え給ふ、後其の松を飛松と称し、今其の地の地名となれり。又御腰を掛させ給ひし石を居敷石と称す。此の時菅公に大宮司(今の摂社今宮社は当時の氏神たり)より御食を奉りけれは其の味を誉め給ふ。故に太宰府天満宮御祭神に際し、毎年大宮司より新穀を捧げ奉りしを明治に至りて此の行事止む。
菅公薨去の後大宮司大隈守広続に御告有りて彼の御手植の松を崇斎し奉る。其の御嫡子右京太夫広貫病に臥し命も危かりしに老松に祈願を込めけるが忽に清快す依りて松の下に一子を建て老松大明神と奉斎す。一條天皇正暦二年元の社地に遷せしなり、其の時より老松宮を庄内の産神とし今宮社を地主神と奉斎す。其の後天正七年九月十日肥前の龍造寺隆信が三男江上上総守家種、荒平城主小田部氏を攻めし際、御宮焼打を蒙りて大宮司屋敷に至るまで残らず焼亡す。其の節大宮司光重の子和泉守光祥敵の侍大将執行越前と戦ひて戦死す。其の後立花道雪の臣十時摂津守弾正及び小野和泉守の助により、怡土郡飯場村なる曲淵河内守が弟波呂新左衛門を頼りて、御神体を奉遷し此処に数ヶ年居給ふ。
文禄年中社殿を建立し、入部庄御社に奉遷す。
往時は神領四十八反有しを太閤秀吉に没収せらる。嘉慶年中時の将軍より一町の寄進あり。又文治年中西谷武蔵坊より上田五反寄進あり。神領も其の後僅に残りしを名嶋の城主小早川秀秋復没収す。上古は社殿壮麗にして楼門神橋等ありしを数度の炎上あり、神領も没収せられ祭事も多く退転せり。後村民之を嘆き、漸く慶長の頃より古の形ばかりを復し、祭祀を興し月々の五五の日には産子御宮に打集ひ御神酒御供を備へ、往時の形ばかりを取り行へり。
【特殊祭事】 一、追儺祭 一月七日夜大豆九手を榧の生薬にて煎りて神前に供し、燈火を滅し神殿幣殿拝殿に至るまで「福は内、福は内、福は内、鬼は外」と三度云ひて左右左と撒く、又参詣人の頭上にも右の如く言ひて撒く。式後鷽替行事を行ふ。
一、御粥例 二月十五日午前一時潔斎、参拝大祓奏上終りて御粥を調製す。白米三合(但し粒選りせしもの)小豆一合(同上)を煮たるもの三掬、塩一掬を水三升にて煮、之を三つの金鉢に盛り、早田中田晩田の札を付く、終りて御神饌と共に神前に供し神饌のみを撤下、御粥は神殿内に奉献す。二月二十五日に至り神饌を供へ五穀豊穣を祈りて之を撤下し蓋を取りて其の年の作物の吉凶を卜す。
一、風祭 七月二十五日氏子中男子参籠す祭典終りて蟲札及び関札、五穀神風等を謹請せし大旗、小旗を氏子に下附す。
一、夏越祭 七月ニ十九日茅にて径六尺の輪を作り、其の上を青赤白黒の色紙にて巻きたるものを拝殿に備ふ。斎主祝詞奏上の後祓串を取り、神饌を奉持せる氏子総代等を率いて先づ輪を祓ひ左右左と廻りて社前禊場に至り神饌を供し大祓奏上、形代、祓串、神饌等を川に流す。
一、宮座月次祭 毎月二十五日執行す。
【例祭日】 十月十一日
【神饌幣帛料供進指定】 昭和三年十一月九日
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公開日  2014/09/14
更新日  2014/09/14
神社入口正面
注連掛石
鳥居扁額
社殿正面
社殿正面
拝殿神額
お潮井台
拝殿内
拝殿内
手洗鉢
社殿全景
社殿全景
社殿全景
社殿全景
本殿
社殿背景
境内風景
境内神社、今宮神社
境内神社(不詳)
石塊
境内神社(不詳)
天照大神、社日五穀神
五穀神
 
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