[0349] 伊野天照皇大神宮(いのてんしょうこうだいじんぐう)
神社№  0349
神社名  伊野天照皇大神宮(いのてんしょうこうだいじんぐう)
神社別名  
参拝日  2012/03/17
再訪日  2014/04/16
社格   県社
その他社格 
ご祭神  天照大神、手力雄神、萬幡千千姫神
由緒等  
伊野天照皇大神宮由来記

祭神 天照大神 手力雄神 萬幡千々姫神
合祀 水取宮祭神 五霊大明神 住吉三神 志賀三神

ここに鎮座せらるる伊野天照皇大神宮は、その縁起をたずねるに草創は極めて遠く、日本書記によると神功皇后香椎の宮に御幸臨の砌、仲哀帝の九年三月(紀元二〇〇年)皇后小山田邑の斎宮に入り、自ら神主となり天照大神(撞賢木厳御魂)の霊をお祭りになったと記されてある。
降つて、陽成帝元慶元年十二月十五日(紀元八八七年)筑前天照神に授位のことが三代実録に見えている。往昔、この宮は南古宮大神宮として祭られてあつたが旧記によれば武将の信仰厚く、北條時宗、菊池武重、織田信長、立花道雪、小早川隆影等は、各難局に際して奉幣し或は社領を奉納するなど敬意を表したと云う。
次で、慶長年間(紀元一六〇一年)黒田氏福岡に入封後代々藩主崇敬厚く、二代藩主忠之は、神主、工匠を伊勢に派遣して、伊勢神宮の構法を学ばせその秘法を授かつた。斯くて伊勢の例にならい二十年毎に式年遷宮を行うことになつた。その神幸には、筑前一円の大庄屋、庄屋が参列し一国を挙げて盛大無比の一大絵巻が繰り展べられたと云う。
後に、六代藩主継高の時天和三年(紀元一六八三年)に此の社地に社殿を移築して益々祭祀を手厚くしてその五穀成就祈祷礼の如きは、藩内各村々に行渡り広く庶民に敬仰されたことは記録に詳らかである。

主な祭日
一月一日 歳旦祭
二月十一日 祈年祭
四月下旬の日曜日 春季大祭 奉納武道大会
十一月二十三日 新嘗祭

掲額奉献の記

雲従龍 頭山満(立雲)先生筆
清徳 進藤一馬(玄陽)先生筆
独掌聲 藤野正人(北辰)先生筆

抑々和楽路会は明治四十年に起源する
過ぐる昭和四十二年の御遷座に当り神殿が改築されたとき古い扉が保存されていることを聞かれた藤野正人先生は頭山満先生と進藤一馬先生の書と併せて自分の書もそれに篆刻して奉納することを思い立たれ只松正敏氏を伴い進藤一馬先生とも相談された
藤野先生歿後は久山町長小早川新氏と只松氏がその遺志に基き地元関係者有志と共にこれが実現に努め進藤一馬氏より「雲従龍」と「清徳」の掲額を藤野家からは「独掌聲」の寄贈を得て昭和五十六年八月茲に三先生の掲額を奉献する運びに至った
拝殿正面の「雲従龍」は易経の乾卦の文言にあり聖徳の輝くところ多くの賢人がそれを慕って集まる意で伊野皇大神宮(龍)の御神徳を崇敬する人々(雲)が数多く集まり御加護を得て平和に繁栄することを示すものである
頭山満先生は近代日本の一大先達としてその偉大な足跡は日本国内のみに留まらず孫文を援けて中国革命を成就し更に遠くフィリッピン、インドの独立運動にまで及んでいるこれは全べて人類の自由と民権の確立伸長を希念された高遠なる思想の実戦で進藤一馬先生、藤野正人先生もまた政治家としてその伝統を踏まえともに広く郷土の発展に盡瘁された
三先生は伊野皇大神宮を崇敬されること篤くひたすら伊野皇大神宮の御神威の興隆を念じ、千人詣、和楽路会等の行事を興し常に伊野信仰の高揚に努められた
茲に三先生の書を掲額奉献するに当りこれを記す

昭和辛酉年八月吉日
伊野皇大神宮
宮司 豊丹生 信

天照皇大神宮古宮跡

天照皇大神宮の起源について、江戸時代の書物『筑前国続風土記』は足利時代の末頃に豊丹生佐渡守とその子兵庫大夫信宗によって伊勢から豊前国彦山を経てこの地に鎮座したと伝えています。戦国時代には立花城主戸次鑑連や名嶋城主小早川隆景ら多くの武将に厚く信仰されていたようです。
江戸時代になると黒田藩の庇護を受け、三代藩主光之公の代になり現在の神路山の麓に伊勢神宮を模した社殿が建てられました。こうした事からこの地は「古宮」と呼ばれ、二十年に一度の式年遷宮の際には今もこの地にご神体を移しています。
このあたりには古い時代から井戸を掘ると災いがあるといわれ、村内には井戸は2つしかありませんでした。そのひとつがこの地にあり、毎年旧暦三月ニ十一日のお宮の大祭の時にはこの井戸水をつかって神饌を炊いていました。

平成19年 久山町教育委員会
ご朱印  
鎮座地区 糟屋郡
郵便番号 811-2503
所在地  糟屋郡久山町猪野604
地図座標 33.670263,130.511983
公式HP   
福岡県神社誌
【社名】 天照皇大神宮 [A00-0063]
【所在地】 糟屋郡山田村大字猪野字別所
【祭神】 志賀三神、罔象女神、住吉三神、天照皇大神、天手力雄神、萬幡千々姫神
【由緒】 祭神志賀三神、罔象女神、住吉三神は字権現に村社水取神社として祭祀ありしを、明治四十三年八月二十五日許可を得天照皇大神宮に合祀す。由緒不詳、明治九年三月再興、此社者神功皇后異国退治之時祈願之社と古老云伝ふ、住吉は供日田と云ふ地にあり洪水の患有るを以て宮苑と云地に移転す、其後元和三巳年二月本社地に移す。明治十五年三月四日村社に被定。天照皇大神、天手力雄神、萬幡千々姫神は社号を天照皇大神宮と称し、元来当神社の祭神なりしも明治四十三年八月二十五日許可を得水取神社を移して同殿とし同時に村社天照皇大神宮と公称す。
由緒不詳往古豊丹生氏の人都に居住す。世々大神の祭を司れり、足利将軍の末代に当りて豊丹生佐渡守有り。罪有て豊前国彦山の麓に流されけり、時に大神佐渡守に告て曰く汝我をたづさへて配所にをもむくべしと、依て密に神体を捧奉り彦山の麓に居住す。其千兵庫太夫に大神告て、「汝我をつれて筑前国粕屋郡猪野と云所に移るべし」と宣ふ、兵庫太夫教の如く猪野村に行き宮を建て仕へ奉る。其後天和三年(延宝誤)黒田権少将継高今の社地に社殿を築き遷す、以後旧藩にてニ十一年目毎に社殿造替を奉仕す。
同大字字南に無格社古宮大神宮として祭祀ありしを明治四十五年三月十四日合併許可、祭神同一に付合併と共に合霊せり。由緒此所は豊丹生兵庫太夫豊前国より来りて大神宮を斎祭りし地なり、天和三年旧藩主黒田継高別所之地に大神宮遷移以後二十一年目神社造替の節此地は旅所なり。大正十二年五月四日県社に昇格。又社説に曰く、当社の創立は果して何時の頃なりしか杳として今知るに由なきも、往昔大神宮鎮座(三代実録天慶元年授筑前国正六位上天照神従五位下)の宮所に足利の末世豊丹生佐渡守が神託を奉じて都より斎き祀れる事実は疑ふの余地なし。
藩主黒田光之公神主豊丹生信重をして工匠都料工藤太夫清重を率ひ伊勢神宮に遣はされ神宮格式に依る造営の奥秘を習得せしめ、本殿を始め瑞垣玉串門鳥居に至るまで、造営調度等悉く伊勢神宮に模へ築造せらる、爾来寛文元年に至る迄、二十五年毎に更営せらるる例なりしを、延宝五年より二十年制に改められ現在に及べり、神域は古来神路山と称し、社前の清流は五十鈴川と唱へ前橋、五十鈴橋架設され、境内には老松老檜鬱蒼として繁茂し幽邃森厳神威の光被する所蓋し尋常ならず、神路山の山頂には、国見ヶ嶽の霊峰あり神功皇后三韓征伐の際、上山田斎宮より大神宮に武運長久の祈願せられ、国見ヶ嶽に登山し給ひ、航路を定め給ひし所なりとの伝説あり。
【例祭日】 四月二十一日
【神饌幣帛料供進指定】 大正十二年五月二十四日
【主なる建造物】 神殿、幣殿、拝殿、渡殿、神饌所、宝蔵庫、社務所
【主なる宝物】 神鏡、古鏡、鉾一対、薩摩箱一個、絵馬、白鶏置物、祓具面説一巻、太刀、神像其他
【境内坪数】 一万八百三坪
【氏子区域及戸数】 百三十ニ戸
【境内神社】 住吉神社、七所神社、恵比須神社、貴船神社、祇園社(何れも末社)
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公開日  2013/07/07
更新日  2019/04/21
社号銘
参詣道風景
参詣道鳥居
参詣道風景
神社入口前
神社入口風景
神社入口石碑
社号標
参道階段
社務所
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
手水舎
参道風景
岩井の滝
境内前階段
社殿全景
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
拝殿正面
拝殿正面
拝殿内
拝殿全景
拝殿全景
拝殿全景
拝殿背景
境内神社風景
境内神社、右から恵比須神社、貴船神社、御霊神社、七所神社
休憩所
休憩所内
手洗鉢
拝殿右側風景
由緒書き
掲額奉献の記
石碑、石柱
古神殿跡前階段
本殿前階段
本殿正面
本殿正面
本殿神額
本殿全景
本殿全景
本殿背景
古神殿跡地
古神殿跡地標
古神殿跡地
古神殿跡地
天照皇大神宮古宮跡地
天照皇大神宮古宮跡地鳥居
天照皇大神宮古宮跡地標
天照皇大神宮古宮跡地案内板
 
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