[0467] 皇石宮(おおいしぐう)
神社№  0467
神社名  皇石宮(おおいしぐう)
神社別名  
参拝日  2012/08/21
再訪日   
社格   村社
その他社格 
ご祭神  埴安神
由緒等  
皇石神社

祭神は埴安神 古く享禄三(一五三〇)年の神殿再建の棟札によれば 大石大明神とよばれている 神体は平たく巨大な立石である
神功皇后は「もし新羅を征する力があればこの大石を抱え起して立てることができる」と うけひ をされたという 文政三(一八二〇)年には社名も皇石に変っている
明治三十一年旧暦元旦 神殿後方の合せ口甕より銅剣・銅戈が発見され 弥生時代の貴重な甕棺墓遺跡として 春日市岡本の遺跡とともに学界の注目するところとなった 昭和四十七年には社地西北麓に多量の祭祀土器が発見されて遺跡の重要性を増した
いま 祭祀の由来を考えるに 遠く日本原始国家形成期における有力者の奥津城の祭祀に創まるものであり 神体石は支石墓とよばれる 当時の墓制であったとみられる
なお 社地に接した鹿部山は もと三つの峰から成っていたが その南麓には数多の古墳群が散在し 中の峰の嶺きからは 永久元(一一一三)年の銘など刻まれた鋳銅製の経筒が昭和四十六年に出土している
即ち 鹿部山の頂上から麓に至る一帯は遠く弥生時代から悠久二千年に亘り連綿として続いてきた聖域で 本社はその中心の槙の巨木群におおわれた森厳な霊地に 永遠に鎮まります神体石を崇敬のまととして斉き祀られてきた真に由緒ある宮どころである

鹿部山経塚と経筒

鹿部山は、三つの峯を持つ山でしたが、花鶴丘団地の造成で東と中の二峯は削られて無くなりました。幸い、皇石宮のあるこの西の峯は残され、鹿部山公園として市民の憩いの場となっています。
造成前年の昭和46年2月、中の峯山頂付近経塚から、石の容器に入った経筒と青磁の合子や皿などが見つかりました。経筒は直径10センチ、高さ26センチの銅製有節鋳物で、中の経典は炭化していました。胴回りの上部には荘園名・日付・下部に願主と金主が点刻されていました。年号は永久元年(西暦1113年)とありますから平安時代後期です。当時この地が筑前国席内院(ムシロウチイン)に属し、峯も父々夫(チチブ)と呼ばれていた事が明らかとなりました。
席内院は、安楽寺(太宰府天満宮)の荘園で、裏糟屋と宗像郡に跨った広い土地でした。父々夫が、江戸期の文書に、志々夫・鹿府とありますから、変化して鹿部となった様です。経筒が埋められたのは、末法思想が背景にありました。良意は太宰府・観世音寺の僧侶で、吉野常元の事は分っていません。当時青磁が大陸(宋)との交易品で、銅経筒も貴重品でしたから、相当の財力者だったと考えられます。
発見された経筒などは、発見者の協力で文化財に指定され、歴史資料館に大切に保存されています。

平成15年3月 古賀市教育委員会
ご朱印   
鎮座地区 古賀市
郵便番号 811-3107
所在地  古賀市美明1丁目25-1
地図座標 33.724079,130.465643
公式HP   
福岡県神社誌
【社名】 皇石神社 [A00-0082]
【所在地】 糟屋郡古賀町大字鹿部字菴園
【祭神】 埴安神
【由緒】 不詳、明治五年十一月三日村社に定めらる。社説に曰く当社は古社なりしが境内より古器物を発見せり、尚当社には沖の井とて御供井ありて、往古は九月一日浚渫し新嘗祭の御饌水に使用せりと云ふ。
【例祭日】 九月二十一日
【主なる建造物】 神殿、渡殿、拝殿
【境内坪数】 千九坪
【氏子区域及戸数】 大字鹿部 十七戸
【境内神社】 今宮神社(保食神)、須賀神社(素戔嗚神)、稲荷神社(保食神)、貴布禰神社(高龗神、闇龗神)
コメント  
公開日  2012/09/09
更新日  2012/09/09
神社入口風景
神社入口
一の鳥居
境内神社、荒波神社
鳥居扁額
由緒書き
参道階段
境内神社、今宮神社
神殿屋根修復記念碑
社殿正面
社殿正面
社殿全景
社殿全景
本殿
境内神社、貴布祢神社
境内神社、浦口神社
境内神社、須賀神社
皇石神社沖の井戸
鹿部山公園山頂の案内板
鹿部山経筒の碑
鹿部山公園山頂からの景色
     
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