[0549] 裂田神社(さくたじんじゃ)
正面写真・地図
神社情報
神社№ 0549
神社名 裂田神社(さくたじんじゃ)
神社別名 
参拝日 2013/06/06
再訪日  
社格  無格社
その他社格 
ご祭神神功皇后
由緒等
裂田神社

裂田神社は安徳、宇竜頭にある。裂田の溝を記念して神功皇后を祀つてある。朱塗りの拝殿は間三間、入二間、絵馬がところせましと奉納され、その奥に神殿がある。神殿の扉には菊花の紋章がある。境内には明治三十九年の鳥居をはじめ、こまいぬ、注連掛石などが、杉の老木や古株と並び、裂田の溝が周りをめぐっている。
例祭は11月28日で、氏子の人たちが集まって火たきごもりをする。

(社)つくし青年会議所

裂田の溝 さくたのうなで (築造年代不明)

この神社の後に流れているのが日本書紀に書かれている裂田の溝(さくたのうなで)です。
山田の一ノ井堰から取水し、山田をはじめ、流域の六集落の田地をうるおしてきた重要な人工の用水路で、日本書紀には「・・・溝を掘っていると、大岩に突き当たり、それ以上進めなくなった。そこで、神に祈ったところ、雷が落ち、その大岩が裂けて水を通すことができた・・・」と書かれ、それがこの溝の名前の由来にもなっています。我が国で一番古い歴史書に書かれ、現在まで使われ続けている溝は全国でも珍しく、貴重な遺跡といえます。
これより下流には、当時とあまり変っていない所がいくつかあり、はるか古代の大がかりな工事を想像できるのではないでしょうか。

那珂川町教育委員会

【裂田の溝ものがたり】

いまから二千五百年以上も前、むかしむかしの、そのむかし、おばあさんの、おばあさんの、そのまたずうっとおばあさんのころのおはなしです。
那珂川のゆたかな流れが博多の海に注ぎこみ、まわりには広い広い平野が見わたすかぎりにひろがって、その一番大切な中心となるところが、ふるさとの安徳村でした。
そして、安徳村にある大きな大地(安徳台)とそのまわりには、穴をほった上に木を組んで作った竪穴住居がたちならび、たくさんの人びとがにぎやかにくらしていました。

ところが、近くには那珂川のゆたかな流れがあるのに、川がひくくて、田んぼに入れる水を引くことができず、お米をたくさん作ることができませんでした。安徳村のたくさんの村人は、
「こんな広い草原を田んぼにできたら、いいのになあ」
「どげんかして那珂川の水をひきこむことができんやろうか?」
「そしたら、おなかいっぱいお米がたべられるようになるのになあ」
などど、口ぐちに話しあっていました。

そんな日々が何年も何年もつづき、八百年の年月がすぎたあるとき、神功皇后が、新羅(いまの朝鮮半島)との戦いのために、安徳村にやってきました。皇后は、旅の無事と戦いの勝利を神々にいのり、那珂川から船出していきました。
やがて、戦いに勝って無事帰ってきた皇后は、神々へのお礼のために、現人神社におまいりしました。そして、現人神にお米をささげるために、神田を開く、という知らせが村むらにつたわりました。
「新しく神の田をつくるには、水を引かねばならん。そのためのみぞを作る大工事をおこなうぞ!」
皇后の命令で、たくさんの兵士があつまりました。
「みぞができれば、畑んなかに水がひけるばい!」
「米ができるたい!」
「おいしいお米がたべられるぞ~!」
喜び勇んだ村人たちも、あちらの村からこちらの村から、くわやすきを手にわれもわれもととびだしてきました。兵士も村びとも力をあわせて、川上の山田のあたりから、いっしょうけんめいほりすすみました。ちょうど、安徳台のあたりまでほりすすんだときでした。みんなの口から悲鳴があがりました。
「わあ!こら、どげんしたらよかろうか~」
なんと、大きな大きな岩が行く手をふさいで、剣やすきやくわにもびくともしないのです。死にものぐるいでほってきたみぞを、ここであきらめるしかないのかと、人びとはがっくりとかたをおとして、すわりこんでしまいました。
これを見た皇后は、武内宿禰という身分の高い家来に命令して、みぞをとおしてくれるよう、神がみにいのりをささげました。

すると、どうでしょう!
「ピカリ!バリバリバリ、ドッカーン!」いままで晴れわたっていた空が、とつぜんまっくらになったかと思うと、稲光が光って、耳をつんざくような音をとどろかせて、ものすごいかみなりが大岩に落ちたのです。あまりのすごさに、さすがの大岩も、とうとう裂けてしまいました。
「ばんざ~い!」
「やったぞ~!」
人びとは手をとりあってよろこび、元気をとりもどし、またいっしょうけんめいほりはじめました。そして、今光村までほりすすんで、ついに平野に那珂川の水をひくことができるようになりました。こうして、まずしかった安徳の村むらは、ゆたかな水田に生まれかわり、何千人もの人がおいしいお米を食べられるようになりました。
人びとはお米つくりにはげみ、秋には、ゆたかにみのった稲穂で、村は黄金色にそまりました。この時から、このあたりを「とどろきの丘」とよび、このみぞを「裂田の溝」とよぶようになったということです。
この裂田の溝は、それから千六百年もの長い間、那珂川町の七つの村、山田・安徳・東隈・仲・五郎丸・松木・今光をうるおしつづけています。
あなたが、いつもたべているごはんも、裂田の溝からひいた水でつくられたものなのです。あなたがざりがにをとったり、つりをしている小川も、裂田の溝から引かれたものなのです。

このように、千数百年以上も前につくられたものが、いまもそのかたちのままはたらいて、わたしたちのくらしにやくだっているようなところは、日本中さがしてもほかにありません。わたしたちの祖先がのこしてくれた、すばらしい「裂田の溝」をたいせつにして、これからもずうっとまもりつたえていきましょう。

おわり

◎裂田溝について
裂田溝は「日本書紀」にも記載があり、歴史的な景観を残しながら約1,300年を経てもなお、現役の人工用水路として活躍している貴重な古代水路です。背振山から流れ下ってきた那珂川が、周囲の山地をぐっと押し広げるように平野を開いたあたりに、その水路は位置します。那珂川の一ノ井手より取水し、全長は約5.5kmあります。農業用水路として、山田から安徳、五郎丸、松木を経て今光までのおよそ130haの水田を潤し、また、雨水の主要な水路として利用されるなど、現在でも、利水・治水の両面において活躍しています。

◎安徳台
安徳台は奴国(なこく)の拠点集落のひとつである。日本書紀には「とどろきの岡」と記され、江戸時代には御所ケ原とも記されている。安徳台は高台となっており、台地上は約10万㎡の平地となっている。

◎岩門城跡
標高195mの山頂に築かれた山城で、江戸時代の文献には延久(えんきゅう)5年(1073年)に完成したと記されている。中世の博多や太宰府を警備する軍事的重要拠点であり、旧那珂郡随一の歴史を誇る山城である。

看板設置 氏子一同 平成23年11月吉日

現在に活きる古代の人工水路 裂田溝~裂田溝の発掘調査~

なかがわ見聞録~文化財散策ルート~ 裂田溝コース

裂田溝の名前の由来は、『日本書紀』の記載によるものですが、記載されている「大岩が立ち塞がった」のがこの場所だといわれています。教育委員会が実施した調査では、このことに関する貴重な成果が得られました。地質的な調査では、ここより上・下流は軟らかい地盤であるのに対し、この場所だけ硬い岩盤が東側の丘陵から細長く張り出していることがわかりました。(右図参照)また発掘調査でも、裂田神社の裏手から溝の底を経て、対岸まで広がる花崗岩の硬い岩盤を確認しています。つまり、ここまで掘り進んできた水路を北側へ通すためには、どうしても水路の開削を遮っている硬い岩盤を突破しなければならず、その工事がいかに大変であったかが、日本書紀の記載に繋がったのではないかと考えられます。
裂田溝は、水田への水の供給をはじめ、私たちの生活と大変密接な関係にあったため、これまで必要に応じて何度も改修され溝幅も変化しています。しかし、この場所は伝説とも符合するため、水路の初期の形状を留める可能性が高い重要な場所といえます。

発掘調査時に現れた花崗岩の岩盤
大岩が裂けたと伝えられる場所を調査すると、花崗岩の硬い岩盤が露わになりました。調査した場所の一部(擁壁が切れている部分)は、保護処理を尾を行いそのまま保存しています。

裂田神社裏手を調査したようす
神社側へ立ち上がる花崗岩の硬い岩盤が確認されました。

亀島を調査したようす
江戸時代の書物『筑前国続風土記』に見られる「亀島」と思われる部分を調査した結果、盛り上がり部分は「段丘礫」といわれる自然堆積であることがわかりました。また、この場所も下は花崗岩の岩盤でした。

那珂川町教育委員会
ご朱印 
鎮座地区筑紫郡
郵便番号811-1224
所在地筑紫郡那珂川町安徳11
地図座標33.491829,130.425619
公式HP 
福岡県神社誌
【社名】 裂田神社 [A00-3040]
【所在地】 筑紫郡安徳村大字安徳字龍頭
【祭神】 神功皇后
コメント 
公開日2013/07/14
更新日2013/07/14
その他の写真
神社全景
神社入口風景
鳥居
鳥居扁額
由緒書き
注連掛石
社殿正面
社殿正面
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
拝殿内
拝殿内
社殿全景
社殿全景
神社裏手
裂田の溝案内板
裂田の溝ものがたり
裂田溝発掘調査解説板