[0650] 筑紫神社(ちくしじんじゃ)
神社№  0650
神社名  筑紫神社(ちくしじんじゃ)
神社別名  
参拝日  2015/08/23
再訪日   
社格   県社
その他社格 
ご祭神  白日別神、五十猛命、玉依姫命、坂上田村麿
由緒等  
例祭日

一月一日、二日、三日 元旦祭開運厄除祈願
二月初午日 筑紫稲荷神社初午祭
三月十五日 粥占祭並びに春季大祭
七月十九日 夏祭(夏越祭)
十月二十日 秋季例大祭
十二月三十一日 除夜祭

●初宮詣・厄祓・車祓祈願
●地鎮祭・落成式・上棟式
●家祓・水神祭・其の他諸祭典

申込先 筑紫神社社務所
℡926-5443

遥かな古代
筑前・筑後を合せて「筑紫の国」と名づけ九州を「筑紫の島」とさえ称した
ああ かくも大いなる筑紫
ここはその発祥地であり中心地である
ここ筑紫のまほらはに鎮まる産土の神はわれわれの遠い祖先の喜びであり現代のわれわれの誇りでありわれわれの子孫が受けつぐべき聖地である
安西均

「まほろば」
丘や山に囲まれた中央の土地
『古事記』・倭建命の思国歌に次の用例がある 「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」

「産土の神」
生まれた土地を守護する神の総称。古代から筑紫の神は、筑紫の国魂として国内鎮護の神である。

筑紫神社 国号起源 延喜式名神大社

祭神・神徳
筑紫の神【ツクシノカミ】筑紫の国魂・筑紫の国号起源・氏神様
玉依姫命【タマヨリヒメノミコト】縁結び・子孫繁栄の神
坂上田村麿【サカノウエノタムラマロ】武家の神・必勝、戦いの神

由緒
祭神を筑紫の神といい、筑紫の国魂である。奈良時代の「筑後国風土記」の神話によると、『筑前と筑後の境となる山に荒ぶる神がいて、峠を往きかう人を多く取り殺していた。その神は人の命尽(イノチツクス)の神と呼ばれた。後にこの神を祀って筑紫の神と呼ぶようになった』とされ、奈良時代以前から当社は在ったと推測される。筑紫の語源は、当社の神号から起こった。
筑紫の神が白日別神・五十猛命という説もあるが断定はできていない。後世に玉依姫命(竃門神社より勧請)、坂上田村麿を祭祀した。
当社は延喜式神名帳(九二七)に名神大とあり、朝廷より尊崇されていた。日本三大実録によると『貞観元年(八五九)に筑紫神社従四位下を奉授され、元慶三年(八七九)に筑紫神社従四位上を授く』とある。類聚符宣抄に天元二年(九七九)の官符に『住吉・香椎・筑紫・竃門・筥崎等の宮は大宮司を以て、その貫首となす』とある。
鎌倉時代から筑紫村の地頭職であった筑紫氏が社司を兼ねていた。その後、享徳二年(一四五三)社殿が造営された。(それ以前にも社殿はあったと推測されるが、記録としては残っていない)筑紫氏は応仁・文明の頃より筑紫村を去り勝尾城(鳥栖市)に移居し武威を振るっていたが、島津勢により落城した。神領は没収、神宝や古文書類も兵火にかかり当社は荒廃した。寛文二年(一六六ニ)に荒廃した社殿を再建、延宝八年(一六八〇)火災で焼失したが再興した。古い石の鳥居は元禄十二年(一六九九)に建てられた。拝殿の「筑紫宮」の額も同年に寄贈された。現在の本殿は貝原益軒の愁訴により正徳二年(一七一二)に黒田藩主から資材を賜り再建されたものだ。明治維新の近代社格制度により、明治五年(一八七二)に郷社に定められた。明治四十四年(一九一一)に上原田の若宮神社が飛地神幸所境内地として編入された。大正四年(一九一六)には県社に昇格した。昭和九年(一九三四)には拝殿が造営され、昭和六十三年(一九八八)には筑紫神社幣殿を中心とした改築、五所神社、若宮神社の建て替え、金刀比羅社の改築が行われた。

年中行事
一月一日・二日・三日 歳旦祭
三月十五日 粥占祭(春季大祭)
七月十九日 およど(夏祭)・夏越の祓
十月二十日 例祭(秋季大祭)

附記
粥占祭は、当社に古くから伝わる伝統神事であり、二月十五日に炊いた粥を鉢(文化二年造)に盛って神前に納め、三月十五日に粥面に生えたカビの色合いと毛草によりその年の作物および風水病害の判断をするものである。筑紫野市無形民俗文化財に認定されている。

平成十六年十二月吉日 奉納 筑紫神社崇敬会

五所神社 祭神・神徳

須佐之男命 【スサノオノミコト】 疫病退散の神・水の神・森林の神
櫛稲田姫 【クシナダヒメ】 稲田の神
菅原道真公 【スガワラミチザネコウ】 学業の神
伊耶那岐大神 【イザナギノオオカミ】 御親神・創造神・父神・夫婦の神
少彦名命 【スクナビコナノミコト】 国作りの神・医療の神・薬の神・農耕の神・知恵の神

由緒
五所神社は、大正四年に、原田・筑紫村内にあった無格社五社が筑紫神社の境内に移転されてできたものである。その五社とは、
須賀神社(原田字榎本)[須佐之男命・櫛稲田姫] 創建不詳
須賀神社(筑紫字栗木)[須佐之男命] 創建不詳
菅原神社(同字城山)[菅原道真公] 創建不詳
須賀神社(同字倉良)[須佐之男命] 明治十二年(一八七九)創建
天満神社(同字太郎丸)[菅原道真公] 弘化二年(一八四五)創建
である。
昭和四年に、御祖神社【ミオヤジンジャ】(筑紫神社境内社)[伊耶那岐大神・少彦名命]創建不詳が五所神社へ合祀される。

筑紫神社 国号起源 延喜式名神大社

筑紫神社 祭神・神徳
筑紫の神【ツクシノカミ】平和・交通安全の神、筑紫の国魂・筑紫の国号起源
玉依姫命【タマヨリヒメノミコト】縁結び・子孫繁栄の神
坂上田村麿【サカノウエノタムラマロ】武家の神・必勝、戦いの神

由緒
社伝によると祭神を筑紫の神といい、筑紫の国魂である。奈良時代の「筑後国風土記」の神話によると、『筑前と筑後の境となる山に荒ぶる神がいて、峠を往きかう人を多く取り殺していた。それでその神は人の命尽(イノチツクス)の神と呼ばれた。後にこの神を祀って筑紫の神と呼ぶようになった』とされている。この神話からもわかるとおり、奈良時代以前からの鎮座と推測される。筑紫の語源は、当社の神号から起こった。
筑紫の神の別名が白日別神(説:吉村千春)・五十猛命(説:松下見林・貝原益軒)という説もある。後世に玉依姫命(竃門神社より勧請)、坂上田村麿を祭祀した。
当社は延喜式神名帳(九二七年)に名神大とあり、朝廷より尊崇されていた。日本三大実録によると『貞観元年(八五九年)に筑紫神社従四位下を奉授され、元慶三年(八七九年)に筑紫神社従四位上を授く』とある。類聚符宣抄に、天元二年(九七九年)の官符に『住吉・香椎・筑紫・竃門・筥崎等の宮は大宮司を以て、その貫首となす』とある。
鎌倉時代からは筑紫村の地頭職であった筑紫氏が社司をかねていた。享徳二年(一四五三年)に筑紫能登守経門・同左近将監俊門によって社殿が造営された。それ以前にも社殿あったと推測されるが、記録としては残っていない。筑紫氏は応仁・文明のころより兵革をし、筑紫村を去って勝尾の城に移居し武威を振るっていたが、天正十四年(一五八六年)に勝尾城が島津勢により落城した際、神領は没収され神宝や古文書類も兵火にかかり、凶賊にあい神社は荒廃した。
寛文二年(一六六ニ年)に村民が力をあわせ荒廃した社殿を再建した。その後、延宝八年(一六八〇年)火災で焼失したが再興した。元禄の鳥居と呼ばれている石の鳥居は元禄十二年(一六九九年)の春に建てられ、額の文字は京都の花山院内大臣定誠が黒田藩の貝原益軒の要請により執筆した。両柱の銘は官梅道栄の書である。社宝の交野三位時香卿の御筆の「筑紫宮」の宮号額は元禄十二年に山内次左衛門により寄贈された。(平成十四年に塗りなおし)。現在の本殿は貝原益軒の愁訴状により正徳二年(一七一二年)に黒田藩主から資材を賜り再建された。江戸時代は筑紫氏の流れを汲む山内氏が社司をしていた。
明治維新の近代社格制度により、明治五年(一八七二年)に郷社に定められ、その後郡区画改正によって村社とされた。明治十四年(一八八一年)再び郷社になった。また、明治四十四年(一九一一年)に上原田の若宮神社が飛地神幸所境内地として編入された。大正四年(一九一六年)には県社に昇格した。明治中期以降は、太宰府の味酒氏が(一時期小鳥居氏、岡見氏が勤めた)奉祀している。
昭和九年(一九三四年)には拝殿・社務所が造営された。昭和五十一年には本殿・拝殿・授与所の屋根の銅板葺き替えが行われた。昭和六十三年には原田区有財資と氏子及び一般善志家の寄贈により、筑紫神社幣殿を中心とした改築、社務所建て替え、五所神社・若宮神社の建て替え、金刀比羅社の屋根の新築が行われた。平成七年には手水舎新築・筑紫口鳥居移転・五所境内補強が行われた。

年中行事
一月一日・二日・三日 歳旦祭
三月十五日 粥占祭(春季大祭)
七月十九日 およど(夏祭)・夏越の祓
十月二十日 例祭(秋季大祭)

附記
粥占祭は、当社に古くから伝わる伝統神事であり、二月十五日に炊いた粥を鉢(文化二年造)に盛って神前に納め、三月十五日に粥面に生えたカビの色合いと毛草によりその年の作物および風水病害の判断をするものである。筑紫野市無形民俗文化財に認定されている。
ご朱印  
鎮座地区 筑紫野市
郵便番号 818-0024
所在地  筑紫野市原田大字2550
地図座標 33.457135,130.542855
公式HP   
福岡県神社誌
【社名】 筑紫神社 [A00-0503]
【所在地】 筑紫郡筑紫村大字原田字森本
【祭神】 白日別神、五十猛命、玉依姫命、坂上田村麿
【由緒】 社伝、祭神五十猛命と云ひ、一説には白日別神と云ひ古来両説あり。後世玉依姫命坂上田村麿の霊を配祀す。当社は延喜式神名帳に(名大神)とありて上古よりの鎮座なり。往古筑紫の名は当社の神号に起り、筑紫の国魂にして朝廷より当社を尊崇せらるる事は古書に判然せり。三代実録に清和天皇貞観元年正月二十七日授筑前国正五位下筑紫神従四位下、又同書陽成天皇元慶三年六月八日丁卯授筑前国従四位下筑紫神従四位上と見え、類聚符宜鈔天元二年二月十四日の官符に当国住吉香椎筑紫竈門筥崎等の宮皆以大宮司為其所之貫首云々。此の社初は城山の頂上にあり崇勵有りしにより麓に移転すと言ふ。往古は神田等若干ありて(油田、土器田、朱田、粢田、宮司田、猿楽田等の名筑紫原田に存す)社僧等奉仕せし由筑紫上野介広門神領を私領の姿にせしに、天正十四年肥前国養父郡勝尾の城落去せしかば神領も敵の所有となり、且神宝古文書類も兵火に罹れり。然して兵火に罹りし其後寛文二壬寅年神殿を造営す。後又延宝八年庚申仲春火災に罹りしに依り再興す。正徳二年神殿拝殿楼門廻廊旧藩主黒田家より造営ありて而て社領三十五石寄附せしが、神社の改革に依りて廃す。其後郷社に列せらると雖も郡区画改正にて村社に列せらる。明治十四年九月二十七日再び郷社に被定。
明治四十四年六月二十九日飛地神幸所境内編入許可。大正四年七月六日県社に列せらる。
【特殊祭事】 粥卜祭 三月十五日
粥面の色合並に毛草により、年中の作物及び風水病害の判断をなす特殊の神事あり。
【例祭日】 十月二十日
【神饌幣帛料供進指定】 大正九年二月十二日
【主なる建造物】 本殿、渡殿、拝殿、御饌所、神門、社務所、参籠所
【主なる宝物】 縁起二軸、棟札一枚、上申書一軸、古代犬一対、古代獅子頭一面、宮号の額一面、国号起源の額一面
【境内坪数】 本社五千七十六坪 飛地八百四十八坪
【氏子区域及戸数】 原田二区、筑紫一区、城山一区、計五区 戸数二百八十五戸
【境内神社】 御祖神社(伊弉諾命、少名彦命)、須賀神社(須佐男命)、稲荷神社(宇賀御魂命)、厳島神社(厳島姫命)、高産霊神社(高産霊尊)、若宮神社(表筒男命、中筒男命、底筒男命、表津少童命、中津少童命、底津少童命)、葉山神社(同右六社と玉依姫命)
コメント  
公開日  2015/08/30
更新日  2020/06/28
一の鳥居
一の鳥居扁額
社号標
参道風景
旧手水舎
例祭日案内板
二の鳥居
二の鳥居扁額
注連掛石
注連掛石
参道脇祖霊殿
三の鳥居
三の鳥居扁額
境内神社、稲荷大明神
境内神社、稲荷大明神
石神群
参道階段
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
社号標
四の鳥居
四の鳥居扁額
参道風景
境内神社、五所神社
境内神社、五所神社由緒書き
境内神社、五所神社鳥居
境内神社、五所神社社殿正面
境内神社、五所神社拝殿神額
境内神社、五所神社拝殿内
神門
神門脇狛犬(阿形)
神門脇狛犬(吽形)
神門背景
手水舎
境内風景
社碑
社碑解説板
お潮井台
ご神木
絵馬堂
絵馬堂内
絵馬堂内
社殿正面
社殿正面
社殿前狛犬(阿形)
社殿前狛犬(吽形)
神馬
拝殿内
拝殿内
由緒書き
社殿全景
本殿
社殿背景
社殿背景
本殿
本殿
焼却炉
     
▲TOP