[0874] 宇美八幡宮(うみはちまんぐう)
正面写真・地図
神社情報
神社№ 0874
神社名 宇美八幡宮(うみはちまんぐう)
神社別名 
参拝日 2016/08/20
再訪日  
社格  県社
その他社格 
ご祭神気比大神、応神天皇、神功皇后、清龍権現、玉依姫、瓊々杵尊
由緒等
宇美八幡宮縁起

祭神
上宮 仲哀天皇
本宮 気比大神 応神天皇 神功皇后 清瀧権現 玉依姫 瓊々杵尊

由緒

上宮
長嶽山南方に鎮座丸型山陵(周囲四十五間)頂上に石祠がある。
祭神は、仲哀天皇、当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、武内宿禰に命じ、香椎に在る所の先帝のお棺を当山に収めて、築陵したとある。皇后の三韓御渡航の折の御殯斂の地か。

本宮
古命を長野八幡宮と言う。神功皇后、三韓御渡航のおり、船上に神あり。吾は新羅の神、清龍権現なりと皇后の国土を守護せん。因って、神功皇后が無事御帰朝の際、当山にて奉斎の祭りを執り行ったという。その後、第十六代仁徳天皇の治天十年(九八三年)平群木莵の宿禰の子博公を神管として、この霊蹟に神社を建立し気比大神天日鉾尊を祀らせたのが本宮の起源である。
下がって、第四十八代称徳天皇の神護景雲元年(一四二七年)社務公実が、八幡宮、聖母宮、豊満宮の三社を勧請され、以後八幡宮の威徳霊験があらたかになって、社名を宇美八幡宮と称するようになった。

祭日
祈年祭 一月一日 寿齢祭 みどりの日
春季大祭 上宮祭 五月二週日 夏季大祭 七月二週日
末社祭 九月二週日
秋季大祭 十月二週土日、二日間

○奈良、平安の頃は大社であり、二月初卯日には、七日間の大祭が行われ神輿三輩、供奉行列とともに深江子負ヶ原海岸に至り、筑前、筑後国の大競技会が行われていたという。
○江戸の頃、怡土郡、中津領十二ヵ村の総社として、風雨疫病の祈願祭などがあり、中津藩の藩史が出役して祭時にあたっていたという。社殿の改修には、中津藩費を充てていた。現神殿は、奥平大膳大夫昌邦の建立によるものである。
○明治維新の頃、長野庄の氏神社で明治五年郷社となり、大正四年県社に昇格した。

奉納 宇美八幡宮奉賛会

宇美八幡宮 前原市大字川付長嶽山鎮座

県社、前原市大字川付七八七長嶽山に鎮座、当社は別名長野八幡宮とも云う。社殿、幣殿、拝殿、参篭所、社務所、神輿庫備わり、老樹がうっそうと茂り真に幽邃の神域である。
本宮は、祭神、応神天皇、神功皇后、玉依姫、瓊々杵尊、気比大神、菅原大神である。
気比大神は、神功皇后三韓渡航の折、船上に現われて援助をされた。皇后は三韓より帰朝され、仁徳天皇の治世十年に、平群木莬宿祢の子博公を神主として此の霊蹟に神社を建て気比大神を祀らせた。是が本宮の起源である。
降って四十三代称徳天皇の神護景雲元年、社務(宮司)公実が八幡宮、聖母宮、宝満宮の三社を勧請する。その後八幡宮の威徳霊験があらたかで、当時の人達の崇敬が多く、社名も八幡宮というようになった。

上宮は、本宮の南二百米許りの山中にあり、周囲四十五間の丸塚型の山陵である。山頂に石祠があり艮の方(北東)向いている。当社縁起によれば、祭神は仲哀天皇とある。神功皇后の摂政元年、大臣武内宿祢に命じて、香椎の宮に安置していた先帝の御棺を当山に斂めて宮を築かせたとある。蓋し三韓渡航の間の仲哀天皇の御殯斂の地であったのだろうか。
嘗っては大松が数本立っていたが、もう今は枯れてしまった。(松喰虫)

八幡様の大樫
上段、中段、下段と三本の大樫が生植していたが、下段の樫は、二度の落雷と台風の為に倒伏した。上段の樫は目通り八米、中段は七米、樹齢千年以上と称されて、神社創建当時よりの遺物ではと噂されている。

前記樫の木に、寄生していた「キセル貝」(シーボルトコギセル)を戦時中「がいせん貝」と銘うって、出征兵士のお守りとしてわたしていたことがあった。伝説に、-神功皇后が、三韓に渡航され、がいせんされた時その「わらじ」について来たと伝えられている貝である。

末社
*宮地嶽神社 勝門姫命、阿部助盛命
 風神神社 阿部高盛命、大山祇命
 生目神社 志那津比古命、志那津比売命
*金刀比羅神社 崇徳天皇、顕仁天皇
 両神神社 豊玉比古命、豊玉比売命
 和多積神社
*猿田彦神社 猿田彦命

明治四十四年、村内各地に鎮座せしを*印の三社に合祀したものである。
ご朱印 
鎮座地区糸島市
郵便番号819-1155
所在地糸島市川付785
地図座標33.507895,130.192867
公式HP 
福岡県神社誌
【社名】 宇美八幡宮 [A00-0582]
【所在地】 糸島郡長糸村大字川付字長岳山
【祭神】 上宮 仲哀天皇
本宮 誉田別天皇、気長足姫尊、玉依姫命、瓊々杵尊
【由緒】 当社者仁徳天皇十年壬午年勧請の由緒記に記載有之、承元二年十一月二日源義頼延文五年五月六日但馬守源長、延文六年七月十三日(此間不明)文書等数通神庫に現存す明治十二年飯原村同十五年小蔵村二ヶ村の者分離の儀上願旧藩に於て中津領東怡土郡十二ヶ村の惣社なり、明治五年十一月三日郷社に定めらる。大正七年十二月二十四日県社に列せらる。祭神瓊々杵尊は字大原無格社天降神社として祭祀ありしを明治四十四年五月二十六日合併許可字長岳山無格社上宮は従来本社と離るべからず由緒ある神社なるも誤て別立致居たるを以て大正元年十一月十三日許可を得本社の飛地境内神社へ引直たり。
尚社説に述ぶる所左の如し、当社は古来社号を宇美八幡宮と称し宮号を唱へ神社号を称せず。宇美と云へるは応神天皇御降誕の地なるに因ると云ひ伝ふ。又此地和名抄に云ふ所の長野郷なるに依り、長野八幡宮と戴せる古文書多数現存す。
上宮は神社境内林南方突角、丸塚堅山陵上石祠にして社記に依るに神功皇后三韓征伐の際、香椎より仲哀天皇の御棺を遷し陵を築き賜ふ所。
祭神誉田別天皇、気長足姫命、玉依姫命は称徳天皇の神護景雲元年に社務公実と云者の奉斎する所なりと云ふ。奈良平安朝時代頗る大社にして二月大神楽、九月には七日間御神幸大祭、御神輿三輦深江子負ヶ原なる鎮懐石八幡宮境内迄渡御あり、相撲、流鏑馬等盛儀を極めしと云ふ。
承元二年義頼、延文五年(附記、延文五年は所謂北朝の年代吉野朝の正平十五年)但馬守源長、永徳元年(附記、永徳元年は所謂北朝の年代、吉野朝の弘和元年)源津康応元年(附記、康応元年は所謂北朝の年代吉野朝の元中六年)源最等の寄進状、嘉禄年正平年応安年(附記、応安は所謂北朝の年代吉野朝の正平二十正年より文中三年の間)正長年等の各社領田数帳現存す。怡土郡中津奥平領の総社たり。
【例祭日】 九月十五日
【主なる建造物】 本殿、幣殿、拝殿、宝蔵、神輿庫、御炊所、社務所、参籠所
【主なる宝物】 神社御縁起一巻、同副紙一通、八幡宮御神影一軸、聖母宮御神影一軸、八幡宮御降誕神影一軸、八幡宮神地寄進目録一巻、寄進田帳嘉禄三年一冊、寄進田帳正平年一冊
【境内坪数】 三千百十五坪
【氏子区域及戸数】 大字長野、大字川付、戸数計百三十戸
【境内神社】 金刀比羅神社(顕仁天皇、豊玉比古命)、宮地嶽神社(勝門姫命、阿部助盛命、阿部高盛命、志那津比古、志那津比売命、大山祇命)、猿田彦神社(猿田彦神)
糸島郡誌
【社名】 宇美八幡宮 [N01-0132]
【所在地】 糸島郡長糸村
【由緒】 幣帛料供進指定社。大字川付字長嶽にあり。当社は社号を宇美八幡宮又は長野八幡宮と称し、上宮並に本宮あり、共に大字川付長嶽山上に鎮座す。社殿幣殿拝殿参籠所神輿庫宝蔵備はり老樹欝蒼真に幽邃の神域なり。上宮は周囲四十五間の丸塚型の山陵にして頂に石祠あり。上宮の祭神は仲哀天皇なり。当社縁起に依れば神功皇后の摂政元年大臣武内宿禰をして香椎の宮に置く所の先帝の御棺を当山に斂めて陵を築かしむ云々とあり。蓋し三韓征伐の間に於ける仲哀天皇御殯斂の地か。本宮は祭神応神天皇神功皇后玉依姫命瓊々杵尊気比大神菅原大神にして、気比大神は神功皇后征韓の時船上に神あり告けて曰く、吾は皇后の国土を守護せんと。因つて御帰朝の際当山に於て報賽の祭を挙げ給ふ。後百二十一年経て仁徳天皇治世十年に平群木莵宿禰の子博公を神主とし、此霊跡に神社を建て気比(笥飯とも書す)大神を祭らしむ、是即本宮の起源なり。(当社縁起に依る)。気比大神は越前国官幣大社気比神宮の祭神なり。
降つて人皇四十三代称徳天皇神護景雲元年社務公実と云ふ者八幡宮聖母宮宝満宮の三社を勧請す。然るに八幡宮の威徳霊験顕著にして朝野崇敬措か奈良平安朝時代は頗る大社にして二月初卯日大神楽、九月十九日より二十五日迄七日間祭礼あり。神輿三輦深江村子負ケ原海浜に神幸し、相撲流鏑馬等の奉納あり、盛儀なりしと云ふ。中幕の世怡土郡中津領十二ヶ村の総社として毎年風止め晴雨疫癘の祈願あり。藩史出役して祭事を督し、社殿造営の際は藩廳資を給して之を扶けたり。今の社殿は宝暦九年奥平大膳大夫昌邦を大檀那として建立したるものなり。
維新の際長野川村小蔵飯原四村(昔の長野庄なり)の氏神となり、明治五年郷社に、大正四年七月幣帛料供進神社に指定せらる。大正七年十二月廿四日県社となる。祭日は十月十四日十五日なり。宝物には仁壽二年二月の縁起を始め古文書二十六通、致雲斎一倫筆祭神御神影、来国光太刀等神庫に現存す。境内三千百十五坪官有神地にして、長野川の清流に臨み百余の石燈長く連り、老樹欝蒼として詣する者の襟を正さしむ。
平群木?宿禰子博公の孫裔は世々専ら祭祀を掌り、時に社僧となり高野山金剛峯寺に属し、寺号を長嶽山瑞雲院宝蔵坊と称へ、僧位は権大僧都法印たり。特に妻帯を許され代々神宮寺の別当職となり、大用山小蔵寺熊野権現社以下十四社を支配す。今七十九代を重ねて神職となる。
境内神社二、金刀比羅神社、宮地嶽神社

[筑紫怡土長野宇美八幡縁起]
夫当山開闢者。往昔人皇第十五代気長足姫尊征服三韓帰朝之時。皇后船上老翁化現。時皇后向老翁曰。汝誰耶。翁曰。吾是新羅国神号?清瀧権現。垂迹於日域。鎮護於国土。言巳不見。爾後皇后還帰筑紫。令武内宿禰移所置香椎仲哀天皇之御棺斂于当山。且詔築陵。日本紀所謂皇后即位之年。移先帝御棺於長野山。乃築陵者是也。又命武内宿禰彼船中所現清瀧権現於当山矣。是以此山仲哀天皇之山陵。亦清瀧権現最初鎮坐之勝地也。自爾当于仁徳天皇治世十年壬午。詔平郡木?宿禰博公祭気比(亦曰笥飯)大神於此山。亦令博公為神主也。(木?宿禰者武内宿禰第四之子也)是則古老正説。即是当山所以因起也。其後当于人皇四十八代禰徳天皇神護景雲元丁未年奉勧請八幡宮香椎聖母宝満宮。時社務公実。(自開祖木?宿禰博公三十一世之後裔也)然則当山諸神集会之古跡。鎮護国家之霊場也。雖然八幡大神威徳霊験超過余社。朝野崇敬不同諸神。是故雖合祭諸社以八幡為最矣。抑祭祀者二月初卯日。読経及神楽等神事厳重也。是則祭神明降霊之時者乎。復九月十九日行幸神輿於袁宇祁能美夜爾。(自当社東北有森俗曰袁宇祁能母理。昔日神功皇后降伏異賊皈朝之後。令武内宿禰建雷山霊鷲寺。時武内宿禰承詔此地故云爾)明二十日亦行幸神輿於子負原。(皇后発向新羅之時。於封島皇子将生。皇后制曰。皇子勿生。乃取二白石挿裳。是則名鎮懐石矣。帰朝之後棄石於此所。故曰子負原。亦此石祭為大分宮之神体矣。)二十四日還幸于袁于祁能美夜邇。翌二十五日邇坐本社矣。誠是如在礼典古今無怠。年々不闕為恒例矣。
仁壽二壬申年二月 日

[縁記別綴摘録]
遺物1、往古深江浜神幸の時の有様模写せられたる天保年間の大絵馬あり。
2、神輿握石、社の東三町田圃の中にあり。伝説に云ふ此石の上を耕せは不吉ありと。
3、梵鐘、長野玉栄寺にあり。
4、仏像、長野大日堂に保管す。刀法雄勁稀に見るものなり。
 阿弥陀仏 一軀 座 三尺五寸
 観世音菩薩 一軀 立 三尺
 薬師如来 一軀 座 一尺三寸
 太子像 一軀 座 一尺五寸
5、古文書、大般若経六百巻、同小三百巻、及各世代真言宗高野山金剛頂院より授印可各通大字川付武内氏蔵す。
コメント 
公開日2016/09/18
更新日2016/09/18
その他の写真
注連掛石
神社前長野川
支石墓
一の鳥居
一の鳥居扁額
支石墓
長野宮ノ前支石墓説明板
二の鳥居
二の鳥居扁額
参道風景
神社全景
三の鳥居
三の鳥居扁額
社号碑
古手水舎
教務所入口
由緒書き
絵馬殿
絵馬殿内
忠魂之碑
境内神社、宮地岳神社
境内神社、宮地岳神社社殿内
境内神社、猿田彦神社
旧社号標
境内神社、金刀比羅神社
参道階段
手水舎
社殿正面
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
社殿正面
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
拝殿内
本殿正面
拝殿神額
拝殿内
拝殿内
奉納絵馬
奉納絵馬
奉納絵馬
奉納絵馬
社殿全景
拝殿全景
拝殿背景
本殿
本殿左側石像
本殿左脇石標
本殿右側石像
本殿右脇石標
社殿背景
境内風景
ご神木
宇美八幡宮のカシ
長嶽山古墳群説明板
上宮入口
上宮全景
奥の院古墳説明板
上宮正面
祠正面
祠全景
祠全景