[0890] 久米神社(くめじんじゃ)
正面写真・地図
神社情報
神社№ 0890
神社名 久米神社(くめじんじゃ)
神社別名 
参拝日 2015/06/09
再訪日  
社格  無格社
その他社格 
ご祭神久米皇子、表津綿積命、中津綿積命、底津綿積命
由緒等
不詳
ご朱印 
鎮座地区糸島市
郵便番号819-1303
所在地糸島市志摩野北3263
地図座標33.606535,130.167206
公式HP 
福岡県神社誌
【社名】 久米神社 [A00-1754]
【所在地】 糸島郡野北村大字野北字久米
【祭神】 久米皇子、表津綿積命、中津綿積命、底津綿積命
【由緒】 不詳、社説に曰く、久米皇子は用明天皇の皇子也、書紀曰推古天皇十年二月巳酉朔、来目皇子為撃新羅将軍、授諸神部及国造伴造等、並軍衆二万五千人夏四月戊申朔、将軍来目皇子、到于筑紫乃進屯島郡而集船舶運軍糧、六月丁未朔巳酉 大伴連噛坂本臣糠手共至自百済是時来目皇子臥病以不果征討(中略)、十一年春二月癸酉朔丙子、来目皇子薨於筑紫、仍駅使以奏上爰天皇聞之大驚、則召皇太子蘇我大臣詔之曰、征新羅大将軍来目皇子薨之、其臨大事而不遂矣甚悲乎。仍殯于周芳婆婆乃、遺土師連猪手令掌殯事、故猪手連之孫曰婆婆連其是之縁也。後葬於河内埴生山岡上云々と。又曰肥前風土記三根部物部郷、漢部郷又曰国史略等に記載有り、神社の近くに皇子及び皇子母君墓と称するものあり、此の所を久米殿屋敷と呼ぶ、日清日露戦役以来事変毎に遠近の別なく参詣し。武運長久を祈る者多し。
【例祭日】 一月二十日
糸島郡誌
【社名】 久米神社 [N01-0017]
【所在地】 糸島郡野北村
【由緒】 野北村久米にあり。祭神久米皇子、志賀海積三柱神、即ち中つ小童、上つ小童、底つ小童これなり。野北村南方に川を隔てて山あり其地を総て久米と称す。其地に古墳あり俗に久米様と称ふ。山下に御社ありて志賀三神相殿に久米皇子を齋き奉る。社家の伝にいふ此地は皇子薨去の地なりと。祭日は旧七月六日、十一月二十日なり。宮崎元胤著久米山稜考あり。
筑前国志摩郡野北村の南の方に川を隔て山あり、其地を総て久米と号す。其地に古墳あり(俗に久米様と唱ふるなり)。山下に御社あり久米の社と称す。祭る所は志賀三神、相殿に久米皇子を斎き奉る。社家の伝に云ふ、此地は皇子逝去の地也と。毎歳霜月廿日に神祭し奉るに里民等饗宴して是に仕ふること尤も嚴なり。此の御社の近所に一株三幹の古杉あり、俗に久米皇子の御母様の御墓なりしと云ふ。其地広き畠にして古代より是を崇めり。また御社の右方に仏殿あり是を伽羅牟と云ふ(地蔵菩薩を安置せりとぞ、是古の久米寺の旧跡か)。当社の本地なりと云伝へたり。此の所は甚閑静の地にして古昔繁昌の時ぞ偲ばれ侍る。御社の前石階下に清泉あり、是を久米の一ツ井云とふ、尤も清潔なり。また山の頂より望めは皇子の陵墓は戌亥三韓に直に向へり。是は異賊降伏を示し賜ふならむか。また山下西方に谷を隔て小墳あり此所を地籠と云ふ。これより天保の頃に古鏡刀剣の類をも掘出せし由を伝う。また戌亥の方に中局と云ふ所にも石櫃の埋ありて顯にも窺れ侍る由なり。己元胤の畏も考へ侍に卅四代推古天皇の御紀に十年壬戍来目の皇子云云とあり。船舶を集めとあれば、此時海上安全の為に志賀三神を斎ひ賜ひしにも有べし。偖この郡の久米郷の名は和妙抄、また式及元享二年の民部省図帳等に見れて今の岐志村芥屋村西貝塚等の諸村を云へり(後年此説を改めて芥屋は鶏永郷、貝塚は鶏永塚にして久米郷に含ますと改正せり)。扨神部を帥ひ賜ひしは專らとは天津神国津神また海原の諸神等を祭崇め賜ふ為なるらめ。
因に云ふ。志摩郡船越の津の戌亥の方に三韓に向ふ淨地の浜地あり(其地広大なり)。其所を齋と云ふ(神代と云ふも其近にあり)。古昔神齋の跡と云ふ。毎歳八月朔日には此村の少年等産土神の社内に集りて陳道と称して東西に立分れ、古門を守り式を為す事于今絶ず。此は古老の伝に昔皇后の諸神を祭り賜ひし旧跡と云ふも、窃に考れは神后は本よりにて此皇子も神部をして祭り賜ひしならむか。
扨て此皇子は用明天皇の御子におはし坐て上宮の廐戸豊聴耳命の御弟に坐せり。御母は庶妹間人穴太部王に坐り。此の皇子重き御身ながら此筑紫の島のはてなる荒波寄る鄙までも玉体を厭ひ賜はず、新羅降伏の為に出御、遠き海原を頓て渡り賜むとして其の事果し賜はんとする程に御病に臥て此里にしも春の霞と惜此世を立去ましぬるは、昔を偲び奉に尤かなしくなも。其は御紀に、明年春二月皇子筑紫に薨賜ぬれば使駅を以て奏上ると記れたり。時に父天皇是を聞し召して大に驚たまひ、皇太子及び蘇我大臣を招て曰く、新羅を征賜ふ大将軍来目の皇子其大事に臨まし未遂して薨ぬ。大に悲み賜ふと有るは此の皇子の御上のこと御悼く思召になも。依りて其御屍を周芳国なる娑婆に殯し賜ふ。後にまた河内なる埴生山の岡に葬賜ふ由を記され侍る。然れば志摩郡の久米の里なる陵墓は御屍の納り賜ぶには坐ねど、当昔暫し殯し奉りし旧跡なれば、玉体に飾賜し御手習の物等をも納め奉りて後葉の印とし賜しにも有べし。然れば仮初の御奥に坐て如斯形ばかり此の地に遺し有ぞ彌よ尊く覚ゆ。
今此の地の久米の社の祭礼霜月廿日には毎歳神座をなし奉る時の軸物ありて、行弘正貞翁が皇子の尊号を懇に記し残せり。然れば此翁も皇子の陵墓は此地と訣定めてや有けん。其は兎まれ新羅に向ふ絶景の浄地にして旧跡なるは本よりにて、久米の郷名も古書に残りて、彼の皇子此の部に屯し賜ひ、皇子薨賜ひし地なれば、総て此辺を久米とは称し侍るにや。其の地に久米樣と俗にも云ひ伝ふる所の陵墓さへ御座せは、己れは先此の地ぞ皇子薨去の地にして且つ殯し奉りし所なりとは思ひ訣め侍るになも。詣て奉らば誰人か当昔の事とも偲はさるへき。あはれ此の事よ。厳矛の中取もちていとも畏き御辺に聞え奉らん人もかな。(中略)久米の王と白す御名は御乳母の姓に寄て云るが、姓氏録久米朝臣久米臣久米直ど侍り、此は大和国高市郡にある地名にて、続日本紀廿八に参議従三位山村王薨豊日皇子久米王之後也。また姓氏録の登美直人出自謚用明皇子春日王他とある。春日王を一本には来目王とあり。此れは来目を春日と寫し誤れるか。また埴生は河内の丹比の郡にあり(此志摩の郡の内にも埴生を氏とする人有り)。本郡久米郷は必ず此皇子の屯し賜し地より云ふか。猶登美真人の事は續記四十に見ゆ。斯く記して此陵の事を世に顯し白すなも。
明治四辛未年九月九日 宮崎元 胤謹記

追考
久米に坐す志賀の神祠をしも俗に加羅宮と伝る由なるは此の地に戒藏庵と云ふ小仏堂も侍るにて能く思慮するに、当昔仏法興隆の御世にしも侍れは、久米皇子の菩提の為に造立し給ひし繁昌の加羅牟なりしかば、遂には御社もなきが如く衰まして寺のみ繁へ海藏院とか何とか称し侍りしか、今將世と共に仏殿も衰侍りて、形ばかりの小庵となり侍るにや。斯る本来の違る例は世に多き事ともなり。久米の社は加羅宮をこそ云へなどと云ふ人も有と聞へければ、因に聊か思ふ旨を記し侍るになも。
大正三年久米星原附近の畑を開墾の際数多の土器及銅鉾を発掘せりといふ。
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公開日2015/07/05
更新日2015/07/05
その他の写真
神社入口風景
鳥居
鳥居扁額
手洗鉢
社殿正面
社殿全景
社殿全景
社殿全景
本殿
第八十四番久米本尊地蔵菩薩糸島東部八十八ヶ所