[0946] 鎭懷石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)
正面写真・地図
神社情報
神社№ 0946
神社名 鎭懷石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)
神社別名 
参拝日 2016/09/11
再訪日  
社格  村社
その他社格 
ご祭神神功皇后、応神天皇、武内宿禰
由緒等
鎮懐石八幡宮

鎮座地 糸島郡二丈町大字深江字荻原二三一〇番地の二
祭神 神功皇后、応神天皇(八幡大神)、武内宿祢
例祭日 放生会、九月末の日曜日(昔は旧暦八月十五日)

由緒
鎮懐石八幡宮御実記を始め、古事記、万葉集の鎮懐石を詠める歌、などによると、神功皇后(息長足日女命)は応神天皇を懐妊しながらこの地を通って、朝鮮半島へ兵を出された時に、卵形の美しい二個の石を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。願は叶って帰国後宇美の里で、応神帝をご安産された。
そこで、神功皇后が経尺の璧石を、子負ヶ原の丘上にお手ずから拝納されてより、世人は鎮懐石と称してその奇魂を崇拝するようになった。
昔は、深江字津ノ上の石垣で築かれた高台に、ご社殿があり、数百年の年輪を刻んだ大きな松の木々が欝蒼と生い茂っていたが、場所が狭く祭典にも不便を来していたので、昭和十一年(一九三六)に南側山手の、字荻ノ原の広い土地にご遷座し、幣殿、拝殿などを新築した。
拝殿の床板は、八十五センチを超える幅の広い松板が使われており、当時この周辺にも大きな松の木々が多かったことを物語っている。
古い歴史の重みを感じさせる大きな松の木も、昭和二五年(一九五〇)頃から、松喰虫の被害が広がり伐採されて寂しくなった。

万葉歌碑
安政六年(一八五九)六月に建てられた九州最古の万葉歌碑で、書は、豊前中津藩の深江在住の儒学者、日巡武澄である。

鎮懐石碑
文化十一年(一八一四)に建てられた碑で、鎮座の由来を書いている。文は亀井南冥の高弟、苓洲江上源伯、書は、福岡藩の藩医であった、米山上村樗という人である。

二丈町指定有形文化財 鎮懐石万葉歌碑

この歌碑は、安政六年(一八五九)六月に建てられた九州最古の万葉歌碑である。
書は、深江在住の豊前中津藩儒学者日巡武澄によるもので、流麗な書体は美術的にも価値が高いものとされている。
碑面は、万葉集巻五所載の鎮懐石を詠じた山上憶良の作と伝えられる歌詞題詞を刻んだものである。
山上憶良は聖武天皇の御代神亀三年(七二六)筑前の国主に任ぜられ、九州に赴任した時に筑前簑島の住人建部牛麿から鎮懐石伝説を聞き、長歌および反歌に詠じて、その題詞に鎮懐石の形状、所在地、並びにその縁起を述べている。
長歌の『深江駅家』の位置については、平成八年から九年にかけて二丈町教育委員会が行った文化財調査によって、塚田南遺跡(町指定史跡)から官道と大型建物群跡などが発掘され、これが深江駅家であるとされている。
平成十一年に町の塚田南遺跡万葉公園として保存整備された。

反歌 阿米都知能 等母爾比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母 (あめつちの ともにひさしく いいつげと このくしみたま しかしけらしち)

平成十一年四月吉日
福岡県糸島郡二丈町深江子負ヶ原 鎮懐石八幡宮

鎮懐石八幡宮 糸島郡二丈町大字深江子負原

祭神 神功皇后(息長足日女命) 応神天皇(八幡大神) 武内宿祢
例祭 旧暦 八月十五日 放生会
由緒 往昔神功皇后は応神天皇を懐胎しながらこの地を通って新羅へ向って兵を出された時に卵形の美石二個を求めて肌身に抱き鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。願は叶って帰国後宇美にて応神帝を御安産されたのである。そこで皇后がかの経尺の璧石を、この丘上にお手ずから拝納されてより、世人は鎮懐石と称してその奇魂を崇拝するようになった。
鎮懐石碑 文化十一年(一八一四)に建立
万葉歌碑 安政六年(一八五九)に建立されたもので九州最古の万葉歌碑といわれる

鎮懐石八幡宮(ちんかいせき)

【鎮座の由来を刻んだ鎮懐石碑】(1814)
文化11年に建てられた鎮懐石碑には、鎮座の由来を書いています。碑文は亀井南冥の高弟、苓州江上源伯、書は福岡藩の藩医であった米山上村樗という人で、後裔は神奈川県に住んである。
碑文には、八幡宮の御神体としてお祀りされている鎮懐石が、失せていたが、ある日、六郎という人が光り輝く一つの石を見つけ、床の間に安置したところ、鳩がその石にとまったという。そこで村民が話し合い、これは普通の石ではない、無くなっていた石に違いないということで、天和3年(1683)に小祠を建て、そこに納めお祀りした。これが鎮懐石八幡宮の創建と言われています。(古事記、日本書紀、万葉集等にも載っており、ずっと前から信仰されていたが、社殿にお祀りしたのが、天和)
祭神は、神功皇后(息長足日女命)、応神天皇(八幡大神)、武内宿祢

【鎮座地】 二丈深江(字荻ノ原(はぎのはる)2310番地2、通称、子負ヶ原(こぶがはら)。本殿は展望所のある、石垣の上、字津ノ上(つのかみ)に建っていたが、敷地が狭かったので、昭和10年(1935)に、現在地へご遷座し、幣殿や拝殿等を新築した。

【九州最古の万葉歌碑】(1859)
安政6年6月に建てられた、九州最古の万葉歌碑で、吉井の釘本家、分家の永田家の方が建てられました。石工は一貴山の関さんや、深江の堀田さんの名前が刻まれています。書は、豊前中津藩の深江在住の儒学者であり、書役に任じられていた日巡武澄(ひよしたけずみ)という人で、きれいな字は書道を学ぶ人々にも注目されています。(拓本資料は、平成2年(1990)のとびうめ国体の時に、拓本を縮小コピーして、印刷したのが始まりで、参拝者から喜ばれています。九州で2番目に古い万葉歌碑は、長崎市にありますが、深江の鎮懐石を詠んだ歌碑です)

【丸い石は、この辺りが昔の磯であった証し】 平成10年(1998)に新築で浄化槽工事をしている時に、角のとれた丸い大小さまざまな石が、浜砂と一緒に沢山出て来ました。昔の磯で、波が打ち寄せていた証しであると思われます。海岸の磯に多く茂っている磯柴も沢山植わっていますし、前の川には、台風などで海が時化たり、大潮の時は、海水が逆流して、橋が浸かることもあります。

【艫綱(ともずな)石】 異国より帰国された時に、この海辺にお着きになり、船の艫綱を繋がれた石と言われています。

【神功皇后御腰掛け石】 この石に腰をかければ、必ず物遺忘と、古くから言い伝えられています。

【唐図(とうず)貝】 深江の美しい海岸の波打ち際周辺に生息している、きれいな、とても上品な、食べてもおいしい貝で、神功皇后が異国より持ち帰り、放たれたと伝えられています。

【拝殿の広い松板】 幅が約85センチもある板が張られています。大きな松の木が、この周辺に多かったことを物語っています。昭和24年頃(1949)の写真もあり、古い松の株が今も残っています。

〒819-1601 福岡県糸島市二丈深江子負ヶ原 鎮懐石八幡宮 ☎(F兼) (092)325-0309

鎮懐石物語 白く光り輝く二つの石(糸島伝説集より)

深江の西南、500メートルの所、国道沿いに玄界灘に向い、苔むした自然石を高く城のように築きあげたお宮がある。これが鎮懐石で有名な子負ヶ原八幡宮である。祭神は応神天皇、神功皇后、武内宿祢の三神であるが、ご神体として祀ってある鎮懐石については奇跡的な話が伝えられている。
第14代仲哀天皇が熊襲(くまそ)討伐のため、神功皇后ともども香椎の宮にも駐屯された時のこと、天皇が妙なる琴をかき鳴らし、武内宿祢が砂庭に仕えて、神の命令をお願いすると、皇后は神がかりとなられて、『西の方、海の面に美人のマユズミの如く見ゆる国向かい津があり、金銀をはじめ目もえ輝く種々の宝がある。その国を授けるによってこれを討て』と口走り、神の託宣を伝えられた。
天皇は早速、高い山から西方の海をご覧になったのであるが、海の中道の青松白砂は眼下に横たわり、雲か山かとかすむ壱岐、対馬が遥か水平線に望まれただけで、マユズミのように見える国は見当たらず、天皇はご神託を信じにならなかった。
そこでやはり、先ず九州を平定するのが先だと、熊襲討伐に軍を進められたのである。ところがその戦いの最中、不幸にも矢傷を負われておかくれになった。
神功皇后はいたくご哀愁にうち沈みになられたが、これではならぬと善後策をお立てになるため、再び武内宿祢を祭主として、皇后に神寄せの儀を行わせになると、四柱の神が現れになって『仲哀天皇は神のお告げを信ぜず神にそむかれたから不幸にあわれたのだ。よって向い津の宝の国は今、皇后の胎中に宿っておられる皇子に授けよう。その皇子は男子であられる。直ちに向い津を討たれよ』と天照大神のご神託があった。
また残りの三柱の筒男神のご神託は『わが魂を船にまつり、真木の灰をひさごに納め、箸やひらで(柏の葉の食器)を沢山つくって海にまき、その上を渡られるがよい』とあった。そこで熊襲討伐を中止し皇后はご懐妊中であったが、おかくれになったことも秘密にして、男装して先帝の身代わりとなられ、新羅の国に渡られることになった。
神功皇后は松浦の津から出航する計画で、途中、怡土の津(深江)に寄港された。ある日、皇后が浜辺に出て小浜(御浜)の磯辺を歩いておられると、白い光を輝かせている二個の石を発見された。近づきになると普通とは思われぬ美しい石であった。皇后はご懐妊の身で船で出征することは少なからず不安を感じておられ、何か安泰な道はないものかと、神にも祈ってあったので『これはただの石ではない、きっと神よりのお授けであろう』と、うやうやしく拾い上げて懐中にはさみ、天を仰いで感謝された。陣屋へ帰って、子負ヶ原の丘の上に御降神の儀を行い、そして『願わくば、かの新羅を征してめでたく凱旋するまでは皇子の誕生なきよう御守護を垂れ給え』とご祈願になった。
三柱の神が託宣された行事を行って、いよいよ皇軍の兵船を海へ出されると、不思議にも、海原に住む魚がことごとく集って来て、船を背に乗せたのであった。そして一陣の追い風を受けると、一気に進み、その波は新羅の国に押し上がって、国の半分の陸上にまで達したという。
この海上の船中にも、皇后は腹部に御異常を感ぜられるごとに、常に懐にさしはさんであったこの二つの神石でお撫でになると不思議と気分が治まるので皇后はたいそうお喜びになり、絶えずこの神石をお体から放されることがなかった。
こうして、新羅遠征も勝利の中に無事凱旋になると、めでたく胎中の天皇が御降誕になった。後の応神天皇である。皇后のご安堵と喜びは一方ではなかった。
その後、皇后はこの神石を祈願の地子負ヶ原丘上に納めて永く祀られたのである。その後この宮の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されているが、その頃からこの神石を皇后産石とも鎮懐石とも呼ぶようになった。この石は寛文年間(1661年)まで残っていたが何時の間にか盗失にあってしまった。ところが、天和3年(1683年)の夏、六郎という里人が卵形の珍しい美麗な一個の石を拾って家に持ち帰っていると、ある日、一羽の鳩が飛びこんで来て、床の間に据えていたその石に止まっていたので不思議に思い、ある博識の古老に話した。
するとこれは、子負ヶ原から失せていた鎮懐石の一つに違いないと教えられたので、六郎も近隣の人々も瑞鳥が飛んで来て止まったのも道理だ、もったいないことだと、子負ヶ原丘上に納めたのであった。そして、貞享2年(1684年)に社殿を新築して、これをご神体にしたという。
現在疑義を感じるのはこの石の大きさである。今の石は横7寸高さ6寸径5寸と言われているが、古書では皆、長さ1尺2寸6分、まわり1尺8寸6分と記されていることである。貝原益軒は如何に長い年月を経たとて、大きな石が小さくなる事もあるまいが、神仏のことは常識を以て論じ難いと評論を避けている。それにしてもこのように大きな石を御腰に挿まれたとか、御裳の中に入れられたということは誰もが不審に思うであろうが、これも皇后に神力があったと考える外はない。
なお、社前に御船をつながれたという『とも綱石』が玉垣を巡らし残されているのも珍しい。また、この八幡宮前の海岸には唐図貝というよその海には見ることのできない貝が住んでいる。貝殻の紋様が唐図を現しているので唐図貝というのだが、皇后が新羅から土産物として持ち帰られたのをこの海に放たれたのが住みついたものと言われておりこれも珍しい話である。
ご朱印
鎮座地区糸島市
郵便番号819-1601
所在地糸島市二丈深江2310-2
地図座標33.511301,130.131452
公式HPhttp://www.chinkaiseki-hachimangu.com/
福岡県神社誌
【社名】 鎮懐石八幡宮 [A00-0672]
【所在地】 糸島郡深江村大字深江字津ノ上
【祭神】 誉田天皇、気長帯姫尊、竹内宿禰命
【由緒】 万葉集に云ふ。筑前国怡土郡深江村子負原云々近有路頭公私往来莫不下馬跪拝と伝曰往昔大帯姫命征新羅国之時玆両石著袖中以為鎮懐中古当社大に衰頽す天和年中更に営社殿明治五年十一月三日村社に定めらる。尤旧藩之節修理営繕之都度藩主より数多寄附銀有之加之領内より許多献資等之義有之鎮懐石文及其詠歌あり石碑に基存す。尚社説に曰く、此御社の御神体は鎮懐石と称へて往昔より二顆の円石を斎ひ奉れり。此石の此辺に鎮まりませる縁は、古事記、日本書紀、万葉集、筑紫風土記、筑前国風土記等の古書に見えて由緒確実なる神社なり。
万葉集巻の第五に
山上臣憶良懐石を詠ずる歌一首並に短歌
筑前国怡土郡深江村子負原は、海に臨み丘上二石有り云々。並に楕円状鶏子の如し、其美好なるは勝て論ずべからず、所謂径尺璧是なり。深江の駅家を去る二十許里(二十許町の誤ならん里人の伝説に古の深江駅は今の上深江なりといへり、今の深江は全部砂地にて其頃迄は海中なりしこと明なり、上深江より子負原迄は凡そ二十町許あり、二十里余もあらんには深江村子負原とは云ひ難し。)近き路頭にあり、公私の往来馬を下りて跪拝せざるはなし古老相伝へ曰往昔息長足日女尊(神功皇后)新羅国を征討し給ふ時、茲両石を採り御裳の中に挿し著て鎮懐となし給ふ。故に行人此石を敬拝して乃ち歌を作て曰く。
かけまくは、あやにかしこし。たらしひめ、かみのみこと、からくにを、むけたひらけて、みこころを、しづめたまふといとらして、いはひたまひし、またまなすふたつのいしをよの人に、しめしためひて、よろづよにいひつくがねと、わたのそこをきつふかえの、うなかみのこふのはらに、みてつから、おかしたまひてかむなからかむさひゐますくしみたま、いまのうつつに、たふときろかも。
あめつちの、ともにひさしく、いひつけと、このくしみたままかしけらしも。
山上憶良は四十五代聖武天皇頃の人なり。
東京帝国大学教授筧博士福岡県知事の許可を受け大正十四年七月二十七日本宮の御霊代を拝見せられ大前にて和歌三首を詠ぜられたり。
上つ代に御母と皇子をつらぬきて内外を結ひしくしみたまかも
足姫の御身も皇国もから国もしつめましつるくしみたまかも
天地のむた栄ゆくたらし姫の貴の奇霊これにおろかむ
紀元二五八四年七月二十七日 克彦
【例祭日】 九月十五日
【主なる建造物】 神殿、幣殿、拝殿、社務所、鳥居、注連掛石
【主なる宝物】 伝来の宝鏡、水晶の玉
【境内坪数】 約千坪
【氏子区域及戸数】 深江村大字深江 三百五十戸
【境内神社】 寒座三柱大神
糸島郡誌
【社名】 鎮懐石八幡宮 [N01-0164]
【所在地】 糸島郡深江村
【由緒】 幣帛料供進指定社。大字深江字津の上にあり。深江の西四町子負原とも荻原とも、又あぶたとも云ふ。社は西北に向つて県道に臨めり。境内に神功皇后御船繋石あり、埋もれて地上に露出すること尺許。社殿は石壁高磴の上、古松聳天の間にあり。祭神応神天皇、神功皇后、竹内大臣。祭日八月十五日。大正十二年八月二日幣帛供進社に指定せらる。古事記(仲哀記)に曰く、『故其政未竟之間。其懐妊臨産。即為鎮御腹。取石以。纒御裳之腰而。渡筑紫国。其子者阿礼坐。故号其御子生地。謂宇美也。亦所纒其御裳之石者。在筑紫国之伊斗村也』とあり。万葉五巻に曰く『筑紫国怡土郡深江村子負原臨海。丘上有二石。大者長一尺二寸六分。囲一尺八寸六分。重十八斤五両。小者長一尺一寸。囲一尺八寸。重十六斤十両。並皆楕円状如鶏子。其美好者不可勝論。所謂径尺璧是也。(或云。此二石者肥前国彼杵郡平敷之石。当占而取之)去深江駅家二十許里。近在路頭。公私往来。莫不下馬跪拝。古老相伝云。往者息長足日女命征討新羅国之時。用茲両石。挿著御袖之中。以為鎮懐。(実是御裳中矣)所以行人敬拝此石。乃作歌曰云云』と又日本紀(神后紀)には『于時適当皇后之開胎。皇后則取石。挿腰而祈之曰。事竟還日産於茲土。其石今在于伊覩県道辺』とあり。而して釈日本紀巻十一に曰く『筑紫風土記曰。逸都県子負原有石両顆。一者。片長一尺二寸。周一尺八寸。長一尺一寸。周一尺八寸。色白而便。円如磨成。俗伝云。息長足比売命欲伐新羅国閲軍之際。懐妊漸動。時取両石。挿著裙腰。遂征新羅。凱旋之日。至芋?野。太子誕生。有此因縁曰芋?野。(謂産為芋?者風俗言同耳)。俗婦人忽然娠動。裙腰挿石。厭令延時。盖由此乎。筑前国風土記曰。怡土郡饗野(在郡西)。此野之西有白石二顆。(一顆長一尺二寸。大一尺。重卅一斤。一顆長一尺一寸。大一尺。重卅九斤)。?者気長足姫命欲征伐新羅到於此村。御身有妊。忽当誕生。登時取此二顆石挿於御腰。祈曰。朕欲定西堺。来著此野。所妊皇子者是神者。凱旋之後誕生其可。遂定西堺。還来即産也。所謂誉田天皇是也。時人号其石曰皇子産石。今訛謂児饗石』。
貝原篤信曰、此石横七寸、高六寸、径五寸、色は少し青赤なり。万葉集風土記の説に比すれば甚小し。久しきを経て亡終るべき物ならねば小さくなるべき理なし。不審。万葉集に子負原は深江を去る事二十許里とあり。今子負原と称する所は深江駅より五町許西にありて道の傍海に臨める丘なれば万葉集に載せる所是なるべし。是より西に子負原と云ふべき地なし。只路程の遠近同じからざる事可疑といへり。今按に石の小なる事は実に解すべからざれども神物常理を以て論じがたし。路程の遠近は一説あり。今の方峰を古へ上深江と云ふ。深江と相去る事二十町許あり。里は町の誤りなるべければ万葉所言と合す。今の深江は子負原と僅四五町を隔るのみ。片峰の隣村石崎は右入海の地なりし由言伝れば、万葉集に海に臨める丘上とあるは上深江の事なるべし。世人只後世の地形を以て説を立る故古書に合ざる事多し。姑く此に記し後考をまつ。(地理全誌)
此石寛文の頃までは此地に有りしが、其後盗取去て失せたりしが、天和三年癸亥村民六郎と云ふ者其辺の捨てありしを見出せしとて、一の石を持ち来り民家に納め置きしに、鳩一羽其家に飛入りし故、諸人彌此石を尊敬し、貞享二年乙丑に至りて此社を建て其石を納むといふ。文化十一年甲戌相謀りて其事を文に記し、石碑の彫りて祠下に建つ。文は旧藩士苓洲江上源伯、書は上村樗なり。今左に載す。
筑之西偏郡曰怡土。怡土之邑駅曰深江。駅之西皐曰荻之原。実子負原。有宝石焉。名曰鎮懐。世神而祭之云。考諸国史。神后足姫氏之征韓也。時妊応神帝而彌月矣。逎祝曰。願振旅凱旋而後分免焉。乃釆両石而挿諸腰帯。遂如其言。帰而措諸斯原。往還者莫不下馬跪拝焉。万葉歌詠之曰。奇御霊。奇御霊読為玖志美多末。距今百五六十年。其石具在。後失所在。至天和癸亥。駅民拾得其一。則有鳩祥於其家。於是邑民協謀建小祠而蔵焉。誓不肯示人。今閲万葉所記。其大尺有余寸。其重十余斤。非尋常宮媛之所得而挟持也。顧神后之哲威。?服殊域。其躯幹膂力亦有蔓超於衆乎。有?呑卵。美源覆武。自古伝之。而其奇又甚焉。な何独疑於斯石哉。邑之父老恐神蹤之則湮欝。請余記之以勒之。
太宰管内誌肥前国彼杵郡の篠下に『万葉集の或云二石者肥前国彼杵郡平敷之石当占而取之とあり云々。さて長崎夜話に長崎の市町を去ること一里ばかり北の山里に平宿といふ処あり。此村なる東山より燧石赤白なるを多く出す』。と云へり。更に西彼杵郡浦上村平宿の実地を聞くに皇后鏡川の古井に御面影を写し、其より少しく西に玉歩を運ばせ給ひ、神に占つて鎮懐石を感得し給ひし由云ひ伝ふと。同所高谷某の所有地に皇后神霊を斎ぎ奉り、傍に三個の碑石あり。其内安政五年長川?の撰文に係る鎮懐石碑ありと。鎮懐石の出所明瞭なるに至れり。
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公開日2016/09/18
更新日2016/09/18
その他の写真
神社全景
社務所
神社入口正面
由緒書き
鎮懐石碑
船繋石
万葉歌碑
鎮懐石万葉歌碑
鳥居
鳥居扁額
参道階段
参道階段脇狂歌碑
境内神社、塞神
塞神拝殿内
塞神由緒書き
万葉歌碑拓本
参道風景
境内神社、金毘羅宮
金毘羅宮由緒書き
境内前階段
社殿正面
社殿正面
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
手洗鉢
お潮井台
由緒書き
拝殿内
拝殿内
社殿全景
社殿全景
本殿
本殿
本殿背景