[0229] 高祖神社(たかすじんじゃ)
神社№  0229
神社名  高祖神社(たかすじんじゃ)
神社別名  
参拝日  2012/04/07
再訪日  2020/06/01
社格   県社
その他社格 
ご祭神  天津日高彦火々出見命、玉依比売命、息長足姫命、天照皇大御神、豊受神
由緒等  
高祖神社
(史跡怡土城内)

この社の創立は、さだかではないが、貝原益軒の続風土記では、中世の頃、「怡土の庄・一の宮」として中座に日向二代の神、彦火々出見尊を、右座に神功皇后(気長足姫)・左座に日向三代の玉依姫を祭ると記されている。三代実録には「元慶元年(八七七年)高磯比咩神に従五位下を授給す。」とあり、神話にちなんだ社です。

高祖神楽

高祖神楽は今から五百数十年前の応仁元年、戦国動乱の時代時の高祖城主、原田筑前守種親が明主である周防国山口城主、大内政弘の要請を受けて京都守護の大任に当たった時、戦陣のつれづれに習得した「京の能神楽」を郷土に伝えたものとされていますが、この外にも異説があり、その始めは定かではありません。
永い歴史と伝統に受け継がれて来た高祖神楽は、江戸時代までは旧怡土郡の神職の奉仕で舞われていました。明治になってからは高祖神社の氏子の人達によって受け継がれ、現在は十数人の氏子の神楽師の奉仕で毎年春の祈年祭、四月二十六日午後一時から夕方まで、秋は十月二十五日午後六時頃より十時頃まで篝火の薄明りで、高祖神社境内の神楽殿で舞われています。

その真価は、昭和四十六年五月十九日には前原町指定民族文化財、昭和五十六年三月五日には福岡県無形民族文化財の指定を受けている格調高い郷土芸能であります。
現在奉納されているのは、面を付けずに採り物を捧げて楽の音にあわせ、神楽歌を唱えながら静かに舞う舞神楽と、面を着けた数人の神楽師が登場して神話物語りを展開されてゆく面神楽が奉納されています。

高祖神社

高祖神社創立の由来

高祖神社は彦火々出見命を主座に、左座に玉依姫命、右座に息長足姫命の三柱をお祀りする神社で、いま創建の時を詳かに出来ないが、九州諸将軍記には『神代より鎮座あり神功皇后、三韓より凱旋の後、当社の社殿を乾の方に向け御建立』と記されている。この機縁で神功皇后を相殿にお祀りした、と伝えている。
当社は、古代から怡土郡の惣社(中世には怡土の庄一の宮)と崇敬される神社で、三代実録には、今から約千百年前の元慶元年九月二十五日葵亥『正六位高礒比売神に従五位下を授く』と記されている。この高礒比売神とは高祖神社のことで、相殿に玉依姫命、息長足姫命をお祀りしてあるので、このように呼ばれていると語り伝えている。
明治五年十一月怡土郡郷社、大正四年十一月神饌幣帛料供進社、大正十五年六月二十九日県社昇格、昭和二十八年七月二十日域外境内社として高祖椚に幸神社、庚申社 高祖浦方に天神社を含め宗教法人高祖神社を設立し高祖区民の崇敬を集めている。また境内神社として伊弉諾神社、思兼神社、農業、特に畜産農家の信仰厚い徳満神社の三社がある。

祭典(年間)
一月一日 元旦祭 高祖子ども会育成会による高祖山初日拝み登山
四月二十六日 春大祭 高祖神楽奉納
六月第四日曜日 夏大祭・千度潮井 前日夜輪越し
九月一日 風止祭
九月十三日 徳満宮大祭・酪農祈願祭
十月二十五日 高祖神楽夜神楽奉納
十月二十六日 秋大祭
十月三十一日 神立祭
十一月三十日 神待祭
十二月上旬 神社総代研修会・大麻頒布祭
十二月中旬 大注連縄作り

高祖神社

福岡県指定有形文化財(建造物)
高祖神社 本殿・拝殿

一、神社の歴史
高祖神社の創建は定かではありませんが、平安時代(九〇一年)に成立した歴史書『日本三代実録』には、元慶元(八七七)年九月に、「筑前国の正六位高礒比咩神に従五位下を授けた」とあり、これが初見と言われています。一一〇〇年以上の歴史を有する高祖神社は、鎌倉時代以降の記録に、「怡土郡一宮」「怡土庄鎮守」などと記され、江戸時代には。筑前国続風土記附録によると、福岡藩が領内の各郡に置いた「郡の宗廟」のひとつとなりました。十六世紀ごろからこの一帯を拠点とした原田氏は、高祖神社を大切にし、永正四(一五〇七)年に原田興種が神社を建立し、その後も、興種の子隆種、その子親種が社殿の再興や社領の寄進をしたことなどの記録が残っています。江戸時代になるとこの地域は福岡藩の領地となりますが、黒田家も高祖神社を手厚く保護し、三代藩主光之が本殿再興の際に材木を寄進し、また、四代藩主綱政は鳥居寄進・絵馬奉納などを行っています。
寛政六(一七九四)年には九代藩主斉隆が領内巡検の祈りに参拝しています。

二、福岡県指定有形文化財(建造物)
平成二四(二〇一二)年、本殿と拝殿が、石造明神鳥居一基、鳥居正面石段一基、棟札八枚とともに、福岡県の有形文化財に指定されました。本殿は、三間社流造の形式で、屋根は檜の皮で葺く檜皮葺です。現在の本殿は、棟札や建物調査などによると、天文一〇(一五四一)年に原田隆種が建立し、元亀三(一五七二)年に原田親種が修理し、さらに、寛文二(一六六二)年に藩主黒田光之が改築したと考えられます。拝殿は、三間×三間の規模で、屋根は入母屋造瓦葺、天井は中央部が格天井で周囲が化粧小屋裏となっています。享保一六(一七三一)年に建てられた記録があり(「棟札写」)、現在の拝殿はこの時に建てられたものと考えらえます。石造明神鳥居は、花崗岩製で高さ約五メートル、福岡藩四代藩主綱政が元禄六(一六九三)年に寄進して建てられたことが、刻まれた銘などにより、分かります。

三、平成の大修理
棟札は県の指定を受けたものも含めて十三枚が確認されていますが、それらには、その時々に行われた工事の内容や関わった人の名前が記されています。それによると、大小行われた工事の内、寛文二(一六六二)年の工事が現在の社殿の姿の基本となっていることが分かりました。そこで、長年の風雪に耐えてきた社殿にも傷みが目立つことから、保存修理事業が計画され、寛文期の姿に復原する方針で、平成二五(二〇一三)年から平成二八年にかけて修理工事が行われました。工事に伴い詳しい調査が行なわれ、新たな棟札や本殿内の龍の墨絵の発見、本殿の周りの三方縁が一時期四方縁であったことの確認、さらには退色した顔料の分析による色の確定などの成果があり、貴重な情報が得られるとともに、工事に活かされました。修復に当たっては、可能な限り古い部材をそのまま使い、腐食や欠損で交換や補充が必要なところは、昔ながらの方法で部材を整形し、工事を進めました。今回新たになった箇所には「平成二八年修理」の焼き印を入れています。本殿の屋根の葺き替えは五十年ぶりでした。神社周辺の檜から採取した檜皮も含めて、幅十五センチ長さ七十五センチ程の檜皮を、少しずつずらしながら重ね、竹釘で固定する伝統的な手法で檜皮葺きが行われました。彩色や金箔の痕が確認された部分は、同じ材質のもので忠実に復原されました。こうして、平成二八(二〇一六)年、工事は無事完了し、高祖神社はかつての輝きを取り戻しました。
文化財は、先人が私たちに残してくれた貴重な財産です。大切に保存・活用しながら、後世に伝えて行きましょう。

平成二九年三月 糸島市教育委員会

高祖神社御本殿修復事業概要

事業経過
高祖神社は、怡土郡総鎮守として一千二百年以上の歴史を有し幾多の人々の崇敬を集め今日に至っている。
永正四年(一五〇七年)に当時の高祖城主原田興種公によって現在地へ遷宮され、その後天文十年(一五四一年)に原田隆種公、元亀三年(一五七二年)には、原田親種公によって補修が行われている。又、寛文二年(一六六二年)には、時の福岡藩三代藩主黒田光之公の用材寄進で再建された。天文期、元亀期、寛文期の材が残っている。更に元禄六年(一六九三年)には、四代藩主黒田綱政公によって石鳥居と石鳥居下の石階段が建立されている。
この様に原田氏及び黒田藩の庇護のもと、氏子等の弛まぬ奉仕が続けられてきた。
しかし、近年老朽化が顕著となり、本格的な修復が必要となる事態に至ったことから氏子及び関係者から、この現状を憂える声が高まる中、修復について具体的な取り組みを進めることとなった。平成二十年(二〇〇八年)六月に高祖神社修復検討委員会を組織してその第一歩を踏み出した。
一方、高祖神社を文化財として広く認知して頂く為に県及び市に対して強く働きかけた結果、平成二十四年(二〇一ニ年)三月二十六日念願の福岡県有形文化財に指定され、補助金を受けることができた。これを機に、氏子の総意を得て修復事業に踏み切り、事業推進の為に氏子代表による実行委員会並びに奉賛会を設置することとし、平成二十四年(二〇一二年)七月に奉賛会の発足を見た。
当該事業には、莫大な資金を要することから、氏子は元より広く浄財の寄附を求めるべく、黒田家十六代の黒田長高様を名誉会長にいただき、懸命に奉賛活動を続けた。現下の厳しい経済状況にも拘わらず、本事業への各段の御理解と、ご支援を賜わり、高祖神社の「平成の大修復」を成し遂げることができた。改めて幾多の人々の善意に対し、表心から深甚なる謝意を表するところである。

平成二十九年三月吉日
高祖神社御本殿修復事業奉賛会

伊都国総鎮守 高祖神社

高祖神社は彦火々出見尊、玉依姫尊、気長足姫尊(神功皇后)を祀っており、『三代実録』によると元慶元年(877年)の項に「筑前国正六位高磯比売神に従五位下を授く」と記されているのが高祖神社のこととされていることから、1100年を超える悠久の歴史を有し、かつての伊都国の総鎮守(のち怡土庄一の宮)として数多の崇敬を集め今日に至っております。
永正四年(1507年)当時の高祖城主原田興種公によって現在地へ遷宮され、その後、天文十年(1541年)、元亀三年(1672年)にそれぞれ高祖城主原田隆種公、原田親種公によって修理がおこなわれ、特に寛文二年(1662年)には、時の福岡藩三代藩主黒田光之公によって再建されております。
現存する本殿は、三間社流造の檜皮葺でありますが、約350年前の姿をほとんど留めていることから、福岡県下でも数少ない極めて貴重な建造物として高い評価を得ております。
加えて、元禄六年(1693年)には福岡藩四代藩主黒田綱政公から石鳥居の寄進があり、境内入口に建立されております。
本殿、拝殿および石鳥居などが平成二十四年三月二十六日に福岡県の有形文化財「建造物」に指定されました。
また境内社として徳満神社があり、牛馬を始め、動物の守護神として崇められています。

<福岡県指定有形文化財>
高祖神社【建造物】平成二十四年三月二十六日指定

本殿・・・三間社流造、檜皮葺 寛文二年(1662年)福岡藩三代藩主黒田光之公によって再建
拝殿・・・正面三間、側面三間 入母屋造 享保十六年(1731年)建立
石鳥居・・・石造明神鳥居 元禄六年(1693年)福岡藩四代藩主黒田綱政公寄進建立

<福岡県指定無形民俗文化財>
高祖神楽【民俗芸能】昭和五十六年三月五日指定

高祖神楽は今から550年前の応仁元年、高祖城主、原田筑前守種親が京都守護に当った時、戦陣のつれづれに習得した「京の能神楽」を郷土に伝えたものとされています。
永い歴史と伝統に受け継がれて来た高祖神楽は、江戸時代までは旧怡土郡の神職の奉仕で舞われていましたが、明治になってからは高祖神社の氏子の人たちによって受け継がれ、現在は氏子の神楽師の奉仕で、春と秋の年二回、高祖神社境内の神楽殿で奉納され、特に秋の夜神楽は、かがり火の中で繰り広げられる幻想的な舞を堪能できます。
昭和46年5月19日に前原町指定民俗文化財、昭和56年3月5日には福岡県無形民俗文化財の指定を受けています。
面を着けずに採り物を捧げて楽の音にあわせ神楽歌を唱えながら静かに舞う舞神楽と、面を着けた数人の神楽師が登場して神話物語りを展開させてゆく面神楽が奉納されています。
※採り物とは降神の宿る所になる鈴・剣・玉のこと
また、地元の子どもたちにより「両剣神楽」や「稚児舞」なども奉納されます。人気演目として国譲りの神話を神楽にした「国平」や、「天の岩戸神話」を神楽にした「岩戸開き」などがあります。
また当日は、現代ではなじみの薄い神話を知って楽しんで貰うため演目ごとに解説を行ったり、「高祖神楽鑑賞の栞」の販売などを行っています。昔懐かしい露店も出店されます。

徳満神社
徳満神社は高祖神社参道の脇にあります。昔から牛馬の神様として、近年はペットの守り神として崇められています。祭神は大名持神少彦名神保食神です。
例祭日九月十三日

高祖神社は、奈良時代に築かれた「怡土城」の城内にあり、すぐ近くには禅宗の名刹「金龍寺」と、ほど近い所には、如意の観音様で有名な「妙立寺」もあります。
その後鎌倉時代には原田氏によって高祖城が築城されました。高祖城主の原田氏の館は神社近くにあったといわれ、神社への道には城下の家並みが続いています。

高祖神社 祭典(年間)
一月一日・・・元旦祭
四月二十六日・・・春大祭 高祖神楽奉納
六月第四日曜日・・・夏大祭・千度潮井 前日夜茅の輪くぐり
九月一日・・・風止祭
九月十三日・・・徳満宮大祭
十月二十五日・・・高祖神楽夜神楽奉納
十月二十六日・・・秋大祭
十月三十一日・・・神立祭
十一月三十日・・・神待祭
十二月上旬・・・大麻頒布祭
十二月中旬・・・注連縄作り

伊都国総鎮守 高祖神社
〒819-1571 福岡県糸島市高祖1578
TEL (092)322-7133
【交通】
福岡方面より国道202号バイパス飯氏交差点左折、約8分
唐津方面より国道202号バイパス飯氏交差点右折、約8分
JR/筑肥線周船寺駅下車、昭和ミニバス川原(かわばる)線8分、高祖(たかす)下車、高祖神社へ徒歩約5分
ご朱印   
鎮座地区 糸島市
郵便番号 819-1571
所在地  糸島市高祖1578
地図座標 33.544768,130.260464
公式HP  http://www.kiku.com/takasu_shrine/
福岡県神社誌
【社名】 高祖神社 [A00-0580]
【所在地】 糸島郡怡土村大字高祖字高祖
【祭神】 天津日高彦火々出見命、玉依比売命、息長足姫命、天照皇大御神、豊受神
【由緒】 九州諸将軍記には神代より鎮座とあり、建久八年原田種直怡土城の旧跡を再興し在城せしより該神を城中の鎮守とし天正十四年原田信種没落の後怡土郡総鎮守の由、往古当村字大下と云ふ地に鎮座永正四年今の地に移転永正以来の棟札には託祖大明神と記載せるもの現存す、又筑前国続風土記等には元慶元年九月ニ十五日神位云々今の本殿は天文十年原田弾正隆種改造寛文二年黒田光之材木悉皆寄附補す、明治五年壬申十一月三日郷社に定められ大正十五年六月九日県社に列せらる。
祭神天照大御神豊受神は字屋敷に無格社大神宮として祭祀ありしを大正四年一月許可を得て合祀す。
尚社説に曰く当社創立の起源詳かならざるも怡土県鎮土の社として上代より鎮座ありて怡土県主の崇敬厚かりし事明かなり。怡土県主五十述手の勤王、一に当社尊崇に因るものと思惟せらる。神功皇后三韓御征伐の御時香椎の宮より此処まで御幸ありて、高祖の神に異国降伏の御惠を仰ぎ給ひけるに果して冥助特に深くありければ皇后御帰りの後報賽の御祭として新に御宮を造り乾に向つて御社を建て給ひき。下つて奈良朝孝謙天皇の御代吉備真備に勅して怡土城を築き給ひしが、当社を怡土城鎮護の神とし給へり。当社は城内中央の岡の上にあり。三代実録に元慶元年九月二十五日癸亥授筑前国正六位上高礒比咩神従五位下、とあり。但し正六位を授けられし時代は不詳。原田氏怡土城の旧跡を修理し高祖城を築き此の地に威を振ふ事凡そ四百年(建久八年より天正十四年迄)、その間当社を城中の鎮護の神として崇敬し毎年正月元日同十五日二月初卯三月三日、五月五日、七月七日、九月九日、十一月初卯には原田氏祭主となり、殊に九月二十六日の大祭には原田当主御輿に供奉して御幸をなせり。原田時代の棟札、古文書等多数現存せり。黒田氏筑前国主に封ぜらるるに至り、当社を怡土郡の総社と定め、諸事郡中にて辨ぜり。現今も四月二十六日祈年祭の節には郡内各大字より祭典費を寄進し、大神楽を奉納するを例とせり。
【例祭日】 十月二十六日
【神饌幣帛料供進指定】 大正十五年七月八日
【主なる建造物】 神殿、幣殿、拝殿、社務所、神饌所、神庫
【主なる宝物】 縁起、棟札、絵馬、刀剣
【境内坪数】 千三百九十七坪
【氏子区域及戸数】 高祖区全体 戸数百二十戸
【境内神社】 伊弉諾神社(伊弉諾尊、伊弉冊尊)、思兼神社(思兼命、菅原道真)、徳満神社(大名持神、少彦名神、保食神)
糸島郡誌
【社名】 高祖神社 [N01-0081]
【所在地】 糸島郡怡土村
【由緒】 幣帛料供進指定社。大字高祖字高祖にあり本社は古代より怡土郡の惣社なり。中古怡土庄一の宮といへり。高祖山の西麓に在りて神殿は西に向へり。祭神中座は彦火々出見尊、左座は玉依姫命、右座気長足姫命なり。社伝に高祖と云へるは歴世の帝王皆此御神の裔孫なればかく称し奉るなるべし。神功皇后三韓を伐ち給はんとて此御神にも祈らせ給ひし故に後世至りて相殿に祭ると云ふ。祭日十月二十六日。創立の年紀伝らず。三代実録巻三十二に元慶元年九月二十五日癸亥授筑前国正六位高磯比咩神従五位下と見えたり。高磯比咩神とあれば即ち女神なり、神功皇后玉依姫相殿に在ますを以て比売神の号あるか。
昔は今の社より西北十町大霜に在りしが永正四年丁卯七月十日原田興種今の地に移せり。(棟札に奉造立大日本国筑前国怡土庄鎮守高祖山大菩薩一宇(中略)原田彈正少弼大藏朝臣興種云云永正四年とあり)天文十年原田隆種之を再興し、(棟札に奉再興云云 怡土郡一宮託祖大菩薩宝殿一宇云云 天文十年辛巳十二月十九日とあり)又元亀三年原田親種再興せり。(元亀三年壬申十二月十八日の棟札に奉再興中略 一宮託祖大菩薩云云 奉行宮別当上原和泉守宮司権大僧郡法印永円とあり)。其後寛文二年乙丑黒田光之修補を加へ、元禄六年癸酉黒田綱政石鳥居を立て社前の磴道をも修補せられたり。明治五年十一月怡土郡郷社と定められ、大正四年十一月十日即ち陛下御即位式当日を以て奉幣使(郡長)を差遣せられ、神饌幣帛料供進の御指定を賜ふ。是より毎大祭には奉幣使の参向あるに至る。大正十五年六月廿九日附を以て内務省より県社昇格の指令ありたり。
昔は神領を有し祭日には神輿三雲なる細石神社に渡御ありしが今は其礼絶えたり。又大鳥居中の鳥居とて有りし由なれども何の時代よりか無し。唯小字にのみ旧名を存せり。又社の右に陽池左に陰池あり早魃の時村民裸体にて之を浚へ以て雨を祈るといふ。原田時代は一年両度の祭典最盛大にして流鏑馬もありしといふ。今の桟敷も其当時馬場桟敷の跡なりと。黒田公時代に及び郡祭に移るも毎年三月廿六日は大神楽あり。九月廿六日には相撲あり。近郷より参詣する者多し。近代は十月廿六日を以て例祭日とす。
高祖神社神職上原家は上代より奉仕せる神官にして維新前までは大宮司なり。故に村民も其名を呼ばずして単に之を通称とせり。維新後官名都て改まり和光祠官たり、以て今の職名となれり。天道根命(一に曰く天日鉾)を遠祖とす。五十迹手より数代の後胤伊覩県主栗隈王九代列相の実子橘朝臣春盛を養ひ嗣とせるを当家第一代とす。怡土の大領に補せらる。是より数代を追うて当社司上原和奉まで四十七代なり。此間社運と共に盛衰ありと雖常に祭祀の任に当り終始渝らざるは此家なり。原田種直が頼りて以て起りしも当家第二十二代上原兵庫頭和重の時なり。其叙位々記の巻等の古文書多く家に蔵す。此の如き世襲の神職なれば維新後明治の初年和光の代士族籍に編入せらる。
高祖神社境内神社に次の三社あり。
伊弉冊神社 祭神伊弉諾大神、伊弉冊大神、由緒不詳
思兼神社 祭神思兼命、菅原大神、由緒不詳
伊勢大神宮 永正の頃原田氏周防大内の幕下たりし時乱世にて伊勢参宮できざりしかば同国山口大神宮を勧請すと云ひ伝ふ。南の方高祖の入口を伊勢城戸といふ。大正四年一月十二日許可を得て同月廿二日高祖宮に合祀す。祭日九月二百十日の日を用ふ。原田氏滅亡の後旧臣の当地に居残れる者大神宮宮座を組織し以て今日に及べり。
コメント  
公開日  2014/12/28
更新日  2020/06/28
社殿全景[2012/04/07撮影]
社殿全景[2012/04/07撮影]
社殿背景[2012/04/07撮影]
社号標[2014/12/23撮影]
参詣道入口風景[2014/12/23撮影]
参詣道脇庚申塔[2014/12/23撮影]
怡土城址全景[2014/12/23撮影]
怡土城址案内板[2014/12/23撮影]
怡土城址入口風景[2014/12/23撮影]
怡土城址碑[2014/12/23撮影]
続日本紀抄碑[2014/12/23撮影]
怡土城と吉備真備[2014/12/23撮影]
神社入口風景[2014/12/23撮影]
神社案内板[2014/12/23撮影]
注連掛石[2014/12/23撮影]
参道風景[2014/12/23撮影]
参道脇社号碑[2014/12/23撮影]
参道風景[2014/12/23撮影]
一の鳥居[2014/12/23撮影]
一の鳥居扁額[2014/12/23撮影]
参道風景[2014/12/23撮影]
注連掛石[2014/12/23撮影]
参道風景[2014/12/23撮影]
境内前階段[2014/12/23撮影]
ニの鳥居[2014/12/23撮影]
ニの鳥居扁額[2014/12/23撮影]
手洗鉢[2014/12/23撮影]
お潮井台[2014/12/23撮影]
神楽殿[2014/12/23撮影]
高祖神楽解説板[2014/12/23撮影]
社殿全景[2014/12/23撮影]
社殿全景[2014/12/23撮影]
社号塔[2014/12/23撮影]
社殿正面[2014/12/23撮影]
社殿正面[2014/12/23撮影]
社殿正面[2014/12/23撮影]
狛犬(阿形)[2014/12/23撮影]
狛犬(吽形)[2014/12/23撮影]
手水舎[2014/12/23撮影]
お潮井台[2014/12/23撮影]
由緒書き[2014/12/23撮影]
寄付のお願い[2014/12/23撮影]
拝殿神額[2014/12/23撮影]
拝殿内[2014/12/23撮影]
拝殿内[2014/12/23撮影]
拝殿内[2014/12/23撮影]
拝殿全景[2014/12/23撮影]
社殿全景[2014/12/23撮影]
境内神社、伊弉諾神社[2014/12/23撮影]
ご神池[2014/12/23撮影]
境内風景[2014/12/23撮影]
社殿全景[2020/06/01撮影]
社殿正面[2020/06/01撮影]
社殿正面[2020/06/01撮影]
社殿正面[2020/06/01撮影]
拝殿内[2020/06/01撮影]
社殿全景[2020/06/01撮影]
本殿[2020/06/01撮影]
本殿彫刻[2020/06/01撮影]
社殿全景[2020/06/01撮影]
社殿背景[2020/06/01撮影]
手水舎[2020/06/01撮影]
境内神社、思兼神社[2020/06/01撮影]
境内神社、伊弉諾神社[2020/06/01撮影]
高祖神社御本殿修復事業概要[2020/06/01撮影]
高祖神社 本殿・拝殿[2020/06/01撮影]
くつろぎ処[2020/06/01撮影]
 
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